殺人論 その10

   《合法》なる殺人(4)




 現代において戦争を起こしているのは結局、国家と企業のトップに立つ一握りの人間の、利益追求のためだ。
 現代の経済戦争では、人の命を貨幣価値に置き換えることをやってしまう。国民ひとりが一生働いても、社会のために10の利益しか生産できないとする。だが戦争では兵士ひとりに換算して、1000や10000もの利益を獲得できると計算できたとしよう。
 ならば国家や企業の指導者たちは考える。なんとかして戦争できないものか、と。

 そのために、殺人の実感が薄い兵器を作る。敵兵は人間ではないと教え込む。正義と愛国心を騙り、兵士の士気を鼓舞する。より良い殺人者のモデルとして、英雄を作り上げる。戦争は利益追求のため、ますます効率的になるが、やっていることの本質は同じ《殺し合い》であることに変わりはない。
 「人を一人殺せば殺人者として処刑されるが、戦場で人を百人殺せば英雄になれる」と言う言葉がある。国は正義の名のもと、戦争と殺人を奨励するため、英雄を作り出す。だが実際にそんな何百人や何千人も殺して平気な顔をしている人間が、もし自分の隣に住んでいたらどうだろうか。
 今は良き隣人であるかもしれない。だが考えてほしい。もし次の瞬間に不条理でも、あなたが国家の敵だと宣告されたとしよう。きっと英雄と呼ばれた隣人は、国家の正義のため、昨日と変わらぬ笑顔であなたを殺してくれるだろう。

 そんなことは単なる思考実験であり、ありえないと断言できるだろうか。
 どれだけの大義名分や正義があっても、思想とは相対的なものに過ぎない。意味があるとしたらそれは、国民に戦争をさせるだけの権力と強制力を持った人間の欲望だけだ。
 そして戦争の第一の理由は国益である。あなたと関係ない場所で、あなたと関係ない人たちが、あなたは死んだ方が金になると判断したら、どうするか。きっとどんな理由をでっち上げてでも、殺そうとするだろう。
 正しいかどうかは関係ない。

 人と人との《法》として考えたなら、殺人は《不法》だ。だが今や《法》の主人は人ではない。国家、社会、企業、組織、もしくは制度そのもの。つまりはシステム自体が《法》の所有者となっている。
 人の《法》は自分と自分の大切な人たちを守るためにある。《法》とは自己を維持するためのものだ。それが、システムが《法》の主人となったと言うことは、現代の《法》はシステムの維持のために存在していると言うことになる。
 さっきの例で考えれば、国が定めたから正しいのであって、正しいから国の法律になったのではない、と言うことになってしまう。ゆえに個人が殺されることになろうと、システムは維持できているのだから《違法》ではない。矛盾はない。
 酷い話だ。

 しかしシステムと言っても別に、実体のない存在ではない。結局は組織のトップに立つ、幾人かの人間の意思を反映しているだけだ。つまり戦争は、システムを維持させようとする一握りの指示により起こっている、と言うことになる。
 しかも、戦争を命令する側の人間には、自分のせいで人が死んでいると言う意識がない。人殺しの《ヒトデナシ》が国のトップにいるようなものだ。
 その上、戦争の大義名分作りのために、普段から自分たちの正義を騙っているものだから、当の正義を騙っている本人までもが勘違いするようになる。この自分たちの利益追求のための人殺しは、正しいのだ。相手が悪だから殺しているのだ、と。
 結果、法の支配者である自分たちが人を殺しても、法の適応外である。ただし法を支配できない弱者は人を殺してはならない。と言う詭弁がまかり通るようになる。
 こうして「正しい殺人」が完成する。


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