殺人論 その12

   人を殺させるモノ(2)




 国家と言うシステムの本義とは、国民の安全と尊厳と財産を守ることである。だからこそ国民もシステムの維持に協力する。
 だが現実には、国民を守るのが建前になっている。国民の協力がないとシステムが維持できないから、仕方なく建前としてでも国民を守ることにしている。

 もしこの構造を親子関係に言い換えるとどうなるだろうか。
 親は子を愛するものである。だが親が子ではなく、自分のことしか考えられなかったらどうなるか。邪魔者として子を虐待するか。でなければ、うまく利用して、自分の老後の世話でも見させるか。
 どちらにせよ親である自分にとって都合の悪い子は認められない。愛してあげられるのは「良い子」だけだ。だから親は子に「愛してほしかったら、良い子でいなさい」と言い聞かせる。
 そんなもの、本当の愛情ではない。見返りを求める愛情を《代償愛》と言うのだ。

 このような時代に生まれた子には、ただ純粋に自分の幸福を求めることはできない。
 「良い子」であると言うことは、親と親の属する社会システムのために奉仕することである。それは奴隷にとっての幸福だ。
 では「悪い子」であると言うことは、どのようなものなのか。誰からも愛されない、と言うことである。

 他人から排除された者は、やがて世界そのものへ憎悪と殺意を抱くに至る。これは説明した。
 愛されたことを知らないから、自分を愛することも、他人を愛することもわからない。現代のシステムが行っているのはその、絆の切断に他ならない。
 「良い子」として社会に適応していた子もどちらにせよ、、何のきっかけで不適応の烙印を押されるかはわからない。「良い子」でいるとは、他人の価値観に従うと言うことだ。それは自分の幸福を、誰か他人の所有物にしてしまうことである。

 そうやって現代の子供たちは、生まれてからずっと自ら幸福になる資格を持ったことがない。世界を憎むか、良い子のまま自殺するしかない。
 そんな人間に、人を殺すな、と言えるだろうか。
 だからこれからもっと、どんどん少年殺人者が出る。ボクはそう考えている。
 最初に説明した。神戸の酒鬼薔薇事件で犯人が《少年》だと知った時に、ボクが歓喜の声を上げたのは、そう言う時代がやってきたと確信したからだ。
 子供たちが、実は誰も自分たちを愛してくれていないと気付く時代が。


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