殺人論 その13

   ゆきてかえるものがたり




 子供の頃なんて、認識できる世界の範囲はすごく狭い。学校と家庭で自分が否定されれば、自分の全部が否定されているのと同義となってしまう。子供は脆弱な世界観しか持っていないから、大人が守ってやらなければ、すぐに壊れて世界を憎悪してしまう。
 ボクにも経験がある。

 「何かが欲しかったら、良い子でいなさい」と愛情に条件を付ける《代償愛》は、本当の愛ではない。親にとってのみ都合の良い愛だ。
 ならば都合の「悪い子」になってしまった子は、もう要らない子なのだろうか。
 もちろん子育てに疲れて、見返りでもないとやっていられない、と言うのはあるかもしれない。だが生まれてすぐの子供は無力な存在である。無力であるがゆえに、子は親に全幅の信頼を寄せる。親は子を愛すれば愛するだけ、自分も愛されるものだ。見返りなんてそれで充分ではないのか。
 自分たち親が子を愛さなかったから、今になって子に愛されない。親は自分が殺し続けた子に、殺され返されているのだ。愛されて育った子供は、世界を憎悪して、人を殺すことはない。
 残酷な少年犯罪が現代の日本で多発するのは、むしろ自然なことだ。希望的ですらある。これが子供たちが「良い子」のまま何も問題を起こすこと「すら」なくなったら、絶望である。

 キチガイだから人を殺すのではない。人を殺すのは人だ。人を殺したいと望むから、人を殺すのだ。
 もし殺人が「悪」だとするならば、誰かを殺さずにはいられない状況そのものが「悪」である。

 システムがやっているのは利益の追求のために、人を殺すことか、人殺しを作ることだけである。もはや誰も個人の幸福を守ってくれない。
 だから最低でも我々は、システムが人殺しを作ることをやめさせなければならない。システムは自己の維持のために、殺人を欲する。だが殺人者が増えて困るのは、我々自身の身の安全だ。だから本来は戦争は長い目で見れば、自分自身を蝕むものに過ぎない。目先の利益しか見えていないのだ。

 だからボクは考える。
 もしかつてのボクのように、世界を憎み、悪意に満ち、誰も信じられないような少年が目の前に現れて、こう問うたらどうするか。
「なぜ人を殺してはならないのか」と。
 それは「どうやれば人は救えるのか」と言う問いにも等しい。きっと今のボクにはまだ完全なる答えは出せない。だからボクはこう言う。

 人が人である限り、誰かを殺したいと望むこと自体が間違いである。なぜ誰も殺してはいけないのか、と言う問いが生じること自体が間違いである。愛された人間にそのような疑問が生じるわけがない。
 しかし君が人を愛せないのは、君のせいではない。君を愛して育てなかった親と、その親の作った社会システムのせいだ。だから君が殺すべきは、人ではない。人を不幸にしかできない、システムそのものだ。
 だから君は誰か、人を愛さなくてはならない。システムの目的は自己の維持であり、そのためには不確定の要素は邪魔となる。だが人と人との出会いは、常に新しいものであり、新しいものは不確定の未来を生む。だから人と人とが《絆》を結ぶことは、結果的に君を苦しめてきたシステムへの復讐になる。
 どうせ愛情を受けたことのない人生だと言うのなら、別に愛し返されなくても、苦しくはないだろ? だが確実に言えるのは愛情とは、求めても与えられないものだが、与えただけ返って来るものでもある。

 ……と。
 もちろん、こんなの詭弁だ。自分で言ってて、余りの青臭さに腹が立つくらい。でも、そうとでも信じていないと、ボクたちは生きて行けない。生きるためには希望が必要だ。
 戦後何十年も経った実感なんてボクにはない。でもかつて「希望」なるものが本当に存在していたのなら、それは戦後何十年もかけて食いつぶされてしまったのだろう。だからこれから、みんなを救うことのできる希望を見つけるには、きっと希望を食いつぶした何十年かと同じだけ、更に何十年もの努力が必要だと思う。
 ただ確実なのは今現在、生きる希望がないと言う事実だけだ。きっとボクらはもう一生「希望」とやらを見れることはないだろう。だが仕方がない。生まれてからずっと見たこともないものだから、うらやましくもない。
 だけどもうこんな「魂が殺される」ような苦しみは、誰にも味わってほしくない。特にこれから生まれる子供たちには。
 だから、かつてあった「失われた希望」の代わりになる「新たな希望」を見つけなくてはならない。もう既に「希望」なんて生まれてから見たこともないボクだから、もし見つかっても、それが本当の「希望」なのかはボクにはわからないだろうけど。


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