殺人論 その4 殺人が《不法》である理由 (3) |
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他人を殺せば、あまりの痛みに自分も壊れてしまう。それでも殺し続ければどうなるのか。もしくは、殺し続けなくてはならないとしたら、どうなるのか。 人を殺したと思っていては、殺人者の心は壊れてしまう。だから殺人者は、殺す相手もしくは殺した相手を、ただのモノだと思い込もうとする。 同じように、人は人を殺さなくてはならない時、相手を自分と同じ人ではなく、モノだと見做そうとする。 自分は人を殺しているのではない。モノを壊しているのだ。そう思い込むことで殺人者は、殺人により生じる罪悪感や後悔など、余計な感情を封じてしまうのだ。 これは聞いた話なのだが、殺し屋を生業としているような人でも、普段は愛妻家だったりと、家族や友人など、身近な人間への愛情は深いと聞いたことがある。 単なる人殺しのままでいることに、人は耐えられないのだ。 実際、人間の精神とは便利なものだ。 殺人の後悔や罪悪感も、要は解釈次第なのだ。必要があれば人は、スイッチをOFFに切り替え、作業として人を殺せる。 だがそのスイッチは解釈次第で無限に拡大される。 痛みを重ねれば、痛みに鈍感になる。他人をモノ扱いすると言うことは、同時に自らの《共感》の否定となる。するとやがて《共感》が麻痺する。 《他者》をモノ化すると言うことは、他人だけでなく、自分と、自分の親しい人間の人格をも否定することに通じる。人がモノに過ぎないことを間接的に認めているのだ。 やがて殺人者は、身近な人間への愛情すら、スイッチひとつで切り替えられるようになる。 身近な人の死に接して、何も感じられなくなる。 自分が最も愛し信頼してきた人間を、ゴミ処理作業のように何の感慨もなく、他の誰でもない自分自身が殺すことに、何の抵抗もなくなる。 そうなれば最早、人としての生活は出来ない。人の生活の大前提は《共感》だ。 人間社会は、人のためのものだ。人とは自分と同じような《共感》が通じる存在だ。その《共感》が通じない存在を、既に人と呼ぶことは出来ない。 そうやって、社会生活が根本から不可能になってしまった「人」を、我々は「ヒトデナシ」と呼ぶのだろう。 そして、人を殺すモンスターを野放しに出来るほど、人間社会は寛容ではない。 人にとって最も大切なものは生活である。それなら、人間社会にとって最も大切なものも生活だ。 ゆえに日常の生活を犯すモンスターの侵入を人の社会は許さない。ヒト殺しの「ヒトデナシ」はヒトによって狩られ、排除されなければならない。 だからボクは別に、人を殺してはならない、とは言わない。 ただし《殺人》の代償として負わなくてはならない《責任》は、人知を超える。 孤独なまま誰とも関わらずに生きてゆける強さ。生まれつき誰にも《共感》したことなどなく、誰が死のうが何の感懐も沸かない精神構造。人間社会が持つ異物への排除に対抗して、全人類を敵に回しても闘争し続ける能力。 以上を覚悟して請け負える人間ならば人を殺せば良い。 それ以外の殺人は、唾棄すべき罪悪だ。尊さのカケラもない卑しい殺人を、ボクは軽蔑する。 だから連続殺人者ごときを、殺人鬼なんて呼んではいけない。 ましてや、ムシャクシャしていたから殺したとか、保険金のために殺したなんて、最低だ。殺人の理由を何か他の理由に転嫁しようとする、その態度が卑劣だ。 最も理想的な殺人鬼とは、快楽や利益などと引き換えに殺すのではない。殺人が日常であり、ただトイレに行くとか、まぶしいものを見るとき目を細めるとか、そのレベルでごく自然に人を殺している。と言うよりは、自分が人を殺していることに何ら不自然さや特別さを感じない間に、人を殺している。 人を殺すために生まれて、人を殺す以外に知らない、生まれついての殺人鬼(ナチュラルボーンキラー)。 これが理想の殺人鬼だ。 もし、そのような存在に遭遇ったら、きっとボクは感動すら覚えるだろう。 それはもちろん、動物園の檻を隔てなければならない存在であり、こちらが猟銃の銃口を向け引き金に指をかけて、はじめて対等となる存在である。 だが実際にはそんなバケモノは生まれようがなく、概念上の存在でしかありえないのだが。 |