偶然の技法 その2



■偶然のデメリット


 物語の面白さとは作意にある。
 物語とは所詮「つくりもの」だ。だが「つくりもの」であるからこそ面白い。どうしてその物語を作ったのかという、読者は作意にこそ注目するのだ。
 しかし《事件》が起こるのも、キャラの意図ならば仕方ないと納得できるだろうが。問題は作者の意図により、偶然で《事件》が起こる場合だ。

 読者は小説をどう読むか。読者は小説を「読み進める」ものだ。階段を登るように情報を積み重ねることで、ひとつの頂点へと至る。感動とは構築物なのだ。
 だが偶然に、起きる動機はない。読者は物語を、階段を登るように情報を積み重ねて読むというのに、肝心の作意が積み重ねられない。偶然の連続では、ストーリーは串団子のように同じパターンの繰り返しになってしまう。
 ゆえに、やたら次々とアクシデントが起こって主人公が右往左往するような展開はストーリーとは呼ばれない。「話を転がす」という。

 例えば、いますぐにでも爆発しそうな時限爆弾がある。機能を停止させるためには、爆弾内部にある赤か青か二本あるコードのどちらかを切断しなければならない。
 それを、爆弾処理に運良く成功したとしても。主人公に死んでもらうと作者として困るから、というだけの理由だと、読者はそんなストーリーに面白さは感じられない。果ては、実は爆弾がたくさんあったけど、全て幸運だけで処理に成功しました、ではギャグになってしまう。

 物語とは「つくりもの」であるが、そこにはリアリティを感じさせなければならない。だが《偶然の事件》は、確固とした背景を持たないため、物語から更にリアリティを奪ってしまう。偶然ばかり使っていると、物語が薄っぺらな嘘になってしまう。
 そこへストーリー構成まで「串団子」と来たらどうなるか。読者はすぐに飽きてしまうだろう。

 だから、これは小説作法における基本になる。重要な《偶然の事件》は一作に一回のみしか使ってはならない。何度も使うと御都合主義になる。
 皆も憶えておこう。

 ならば、偶然の使いどころとはどこなのか? 失敗しそうだからといって、使わないわけにもいかないし。
 これにはボクも悩んだ。
 結局は、物語が持つ特性を活かして使い分ける。偶然の持つデメリットを逆手に取るしかないようだ。



■物語における偶然とは

 偶然の特性とはどのようなものなのか。
 物語とは全てが作者の「作り物」である。物語に完全な偶然など一切ない。物語では起こり方の偶然・必然の差なく、全ての事件には作者の意図が介在している。
 物語中の偶然は、作者の自作自演なのだ。


 例えば偶然に対し「何という驚くべき偶然だろうか。まさしく運命のイタズラ」なんて描写があったとしても。読者にしてみれば「いや、自分で自分の考えたことに驚くなよ」とか「その運命を決めたのはお前だろう」というツッコミが入って終わりになるだろう。
 突然、目の前でアクシデントが起こるという展開も、最初のうちは効果的だろうが。あまり繰り返されると、読者だっていちいち驚いてあげるのが疲れてくる。

 物語とはただ単に《事件》を起こせば面白くなるというものではない。
 面白さとは、《事件》が起こって「では、どうなるか?」という展開の中にこそある。ストーリーに関係するからこそ面白いのだ。ということはストーリーに関係しない事件は面白くないということになる。
 読者を楽しませようという作意を積み重ねてこそ、面白い作品となるのだ。

 するとストーリーの面白さを無視して、作者の勝手によって進むような展開は面白くないし。ましてや、そんな展開を使って「このストーリーは面白いですよ〜」なんて主張したところで、自作自演にしかならない。読者は置いてけぼりになるだろう。
 「驚くべき偶然」だと驚くのは作者ではない。読者だ。
 「まさしく運命のイタズラ」だと感動するのも作者ではない。読者だ。
 ストーリーのどこが面白いか、作者が説明なんてしなくても、読者が感じるようにしなくてはいけないのだ。

 ましてや、偶然の出来事は周囲との繋がりが余計に少ない。面白さに繋がるような展開の仕方が難しい。ただ単に偶然を起こしても、面白くはならない、ということだ。


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