偶然の技法 その7



■偶然から必然を作ろう

 例えばの話。ここに、カノジョの欲しい男がいたとする。そこで男はナンパを行うことにした。相手は誰でも構わない。たまたま通りかかった女性を遊びに誘い、たまたま成功し、何となく付き合いが始まった。しばらくして互いにその気もなかったのに、女性は男の子供を妊娠したと判明し、運が悪くか良くかは分からずても、出来ちゃった結婚となる。
 以上まで、全て《偶然》による所作だ。
 だが結婚し、子育てをして、ふたりは老いて死ぬまで何十年と連れ添ったとしよう。ここまで来ると、ふたりが出会ったのは運命であり、何らかの必然的な働きがあったはずだ。今という未来のために、過去があったのだという話になってくる。

 今更「そもそも論」になってしまうが、そもそも宇宙で起こる全ての出来事とは、必然的に生じる。蝶の羽ばたきのような小さな原因により、遠く離れた場所で嵐のような大きな影響が起こるといった、《バタフライ・エフェクト》という言葉もあるくらいだ。
 だが有限の認識力しか持たない人間では、全ての事象を観測するのは不可能である。ましてや、小説で全てを記述するのは不可能だし、そもそも無駄に過ぎない。結果的に偶然の出来事で満ち溢れた世界を、ならば人の目に必然とはどのよう映るのだろうか。
 すると必然も偶然も結局は、主観による勝手な判断だということだ。必然性とは内的に、後付けされる。物語ならば「必然とは内的に演出される」と言い換えても構わないだろう。

 ならば《内的必然》の「内的」とは何なのか。
 外的に起こる事件に対して、内的な必要性つまりは「求めるもの」が一致した瞬間。人は「必然性」を感じる。偶然の出会いが、運命的に起こったと感じるようになる。
 この内外が一致した瞬間をユング心理学の用語でシンクロニティ[共時性]と呼ぶ。シンクロニティとは、「偶然」が心理的な作用により「必然」に変わって生じる現象なのだ。

 ではシンクロニティがどう起こるのか。更に詳しく、ユング心理学から引用させてもらうと。《個性化》という状態への成立過程が参考になるだろう。
 まず登場する人物は問題を抱えていなくてはならない。でなければ、どんなキッカケがあっても変化は起こらず、ドラマにもならないからだ。
 そこへ出会いがある。出会いによって隠されていた問題は表出され、事件となる。水が高きから低きへと流れるように、問題を抱えていれば、何らかのキッカケで変化が起こるのは、ごくごく自然な現象といえるだろう。
 だが、問題があるからキッカケが発生するのではない。キッカケがあるのは問題ゆえである、という考え方もできる。

 変化のキッカケとなる偶然の中でも、特に大事なのは《出会い》だ。《出会い》こそが問題を事件に変える。では誰と出会えば、事件になるのだろうか?
 出会うのは自分の思い通りにならない、自分の理解できない、《他者》であるべきだ。他者との出会いであってこそ、内的な変化が生じる。既に自分が知っているモノと出会っても、御都合主義にしかならないし、自分が変わるキッカケにもならない。

 そもそも《他者》とは「別人」というだけの意味だけではない。自分にはないものを持っている。もしくは、自分が見たくない嫌な部分を持っている。まさしく「自分の中」には存在しない、都合の悪い存在なわけだ。
 すると《他者》とは実際の人物に限らない。状況としての《他者》も考えられる。例えば真面目な人にとっての《他者》は、遊び人といったところが思いつくだろうが。状況としての《他者》として考えると、誰もが奔放に騒いでいる酒場なども、真面目な人にとっての《他者》となる。

 だが人間というのは他者に対してこそ、自分の断片・欠落をこそ投影してしまうものだ。「他人は自分を映す鏡」というわけである。ところが他者という《鏡》に映っているのは、既に自分が知っているモノではない。自分が認識できる範囲内というのを、光に照らされた場所だとすると。自分が認識できない、認識したくない場所、つまり《他者》とは自分にとって《影》の部分ということになる。なにせ、自分というのは鏡を通してしか見られないものだから。
 人は他者と出会うことで、自らの鏡像である《影》と向き合わなくてはならなくなる。だからリアクションは過剰なものとなり、《事件》となる。事件すなわち、ドラマが発生するのだ。


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