「逃避した表現」に関する注意 その2

     三点リーダーへの逃避



 まず……沈黙を意味する三点リーダー(「……」のこと)を、多用する人っていますよね。

《悪例》
「……」
「な……なんですか? 先生……」
「……実は」
 ……どうしたのだろうか。
「君の父上が……交通事故に遭われた」
「……えっ!?」
 ……………………
 …………
 ……
 私は……思わず言葉を……失って……しまった……。

 ちなみに、念のために言っておきますが。
 これを三点リーダーではなく、代わりにナカセン(「――」のこと)を使っても、本質的には同じことですよ?

 以上の例ならば三点リーダーと言う記号で表現されていますが。この沈黙した「間」に、実は結構な量の描写を詰め込めるものなのです。そして描写密度の高いモチーフだと言うことは、重要な部分だと言うことになります。

 ただボケーッとしているだけの沈黙なら、わざわざ三点リーダーでも表現する必要はありません。
 それをわざわざ表現してやっていると言うことは、何らかの理由があってのこと。つまりはその箇所が、重要な部分であるからなのです。

 あえてキャラクターが沈黙している。その沈黙の間には、いろんな心の葛藤なり、多くの語るべきモチーフが隠れているはず。感情があっての沈黙であるはずです。
 その、沈黙に至った感情を、きちんと地の文で言葉にしてやる。言葉にしないと、読者には通じません。
 極端な話。三点リーダーなんて使っている暇があったら、文章で「沈黙しました」と書いてやれば良いのです。その方が読む方にとっては、むしろ親切であるとすら言えるでしょう。

 三点リーダーは便利な記号です。ですが便利すぎて、安易に依存しがちになるのも事実。初心者の内は、あえて三点リーダーを使わないようにするのも練習のうちでしょう。

《訂正例》
「君の父上が交通事故に遭われた」
 先生ったら何を言っているのだろう。私は言葉の意味が理解できなかった。いや本当は理解したくなくて、無意識の内に拒否していたのかもしれない。しかし凍結した認識に後から、厳然たるリアリティが、ようやく追いついてくる。思わず思い浮かべたのは、朝まで元気だった父の顔だった。
 その元気なはずの父が、えっと。どうしたって? ここまで来て私はやっと
「え?」
 と先生に、言葉の意味を聞き返すことが出来た。他には何も言葉は出ない。出ようがなかった。あの時の私は、それほどまでに余裕がなかったのだ。

 と、ここで心理表現に関する豆知識です。
 キャラクターの思いを直接伝えることは、文学にしか出来ません。他の例えば、演劇や映画や漫画では、直接的な心理表現というのは、ほぼ不可能です。これがどういうことなのか、詳しく説明しますと。心理表現には「直接的に表現するか」「間接的に表現するか」の二種類しかありません。なぜなら《内心》というものは隠されていて、第三者には絶対に分からないものだからです。

 本来、内心というものは隠されて、誰にも分かりません。ですから他人が内心を理解しようと思ったら、《外部》から連想するしかありません。《外部》とは例えば、演技や、セリフや、独白[モノローグ]や、ナレーションなど。明らかになった情報のことです。外部に出てきた明らかな情報を通してしか、隠された内心が分からない。ゆえに心理表現は間接的になってしまいます。
 心理表現とは、読者の勘違いを積み重ねて、ひとつの印象を事実だと思わせる技法といっても良いでしょう。他人の内心が分かったつもりになる、という読者の勝手な判断ゆえに。いやむしろ、目の前の他人に内心なるものが存在しているという前提があるからこそ、心理表現が成り立つのです。

 だから全ての間接的な心理表現は「実は嘘だよーん」の一言で全てがひっくり返ってしまいます。例えば、一度も会ったことはないけれど、ネットを介して親友が出来たと思ったら、単なるプログラムだったという可能性だってあるわけですよね。
 この問題に関しては詳しく説明していると、近代文学の成立まで言及しなければならないので、今は省略させてもらいますけど。

 小説以外で最も直接的な心理表現といえば、セリフがあります。だがセリフにも《ワザとの嘘》というものがある。「あなたなんて嫌い!」というセリフが、内心では真実か嘘かどうかは、第三者には分かりません。もしかすると、本当は好きなのに、照れ隠しで嫌いだと宣言している可能性だってあるわけですよね。ゆえにセリフもまた、間接的な心理表現なのです。
 推理モノを思い出してください。推理モノとは、他者の内心が不明ゆえに作品が成り立つジャンルです。だって内心がバレバレだと、すぐに真犯人が分かってしまいますからね。

 ですが、中にはどうやっても嘘を吐くことのできない心理表現の方法というものもあります。
 例えば《内心の声》。内心の声として直接記述されてしまえば、嘘を吐くことができません。内心の声として表現された内容は、事実として扱われるので、連想する余地も生じない。
 ちなみに推理モノにおいて、真犯人は内心の表現がまず行われません。だって、事件が解決している途中で、真犯人が誰かバラしちゃ、推理モノになりませんから。ですがこれは逆に考えると、推理モノを読みながら、誰か真犯人かを当てるコツだったりします。
 卑怯な読み方ですけどね(笑)

 この《内心の声》ならば、漫画でも使用可能です。漫画でも可能。セリフを表現するための吹き出しを、雲のような形を変えれば、内心の声を表す記号になる。優れた表現方法だといえるでしょう。雲状吹き出しによって内心の声を表現できるようになったことで、数ある芸術表現の中でも漫画は特に豊かな選択肢を得ました。
 が文学も負けてはいません。

 文学では《内心の声》より更に先の心理表現があります。というのも《神の視点》で説明してしまえば、文学では全てが記述可能だからです。
 例えば、内心の声が表現できるようになったとしても。もしかして、自分ではこう思い込みたかっただけで、本当は違う思いだった、という可能性だってあるわけですよね。もしかすると、本人ですら気付いていない深層心理すら、文学では表現可能です。
 更には「世界で最も美しい」なんて文章で書くのは簡単ですが、他のジャンルではどうやって表現すべきなのか。難しいところです。
 と以上のように文学は、特に内心を表現しやすいメディアだといえるでしょう。

 とはいっても、他のメディアに比べて、仕える道具が多いというだけの話です。逆に、小説では再現しづらい表現もありますし。また縛りもありますから、使いこなせるかどうかは別問題です。だから、もちろん上手下手の差は出てくるでしょう。
 そもそも「世界で最も美しい」なんて文章。そのまま書いても、陳腐にしかなりませんよ(笑)
 ただ、このように小説には独自の、豊かな表現方法が広がっています。追求もしないで、安易な書き方に逃げていては、勿体ないと思いませんか? この際ですから、小説とは何なのかを考えてみるのも面白いですよ。


← Return

Next →


Back to Menu