はじめに 〜 流動性小説作法論 〜



 まずは小説書きを目指す人たちへ、よっつの教訓を提言しよう。形から入ったので構わない。以下を、四の五の言わずに守って欲しい。

  結果のみを早急に求めるな。
  自分への、読者の評価を否定するな。
  他の書き手を見下すな。
  取らぬ狸の皮算用で自分を語るな。

 まず「結果のみを早急に求めるな」とはどういうことか説明すると。
 例えば、充分な実力もないのに「練習とか面倒臭いので、やってる暇がない」と修行はしない。だが新人賞に投稿すれば、もしかして入選するかもしれない。そうやってリスクもコストもなしに、リターンのみを求めることだ。

 「自分への、読者の評価を否定するな」とはどういうことか。
 自信作を書いたのに、実際に読んでもらうと、散々な評価しかもらえなかった。そこで「どいつもこいつも、俺を理解してない。俺の方が面白いはずなのに」と読者に責任転嫁するのだ。
 あと、小説の新人賞に投稿したのに、自分は落選してしまった。そこで受賞作を読んでみて「この程度なら俺の方が上だ」と思い込むのも、コレになる。

 「読者を否定するな」というのに近いのが「他の書き手を見下すな」という教訓だ。
 一定以上の修練を積んだ書き手ともなれば、それぞれ独自の作風を持つ。簡単に真似できるものではない。というのに自分だけを基準に「アイツらは○○ができないからクズ」と決めつけてはいけない。学ぶべき点は多くあるはずなのだ。

 そして書き手の価値とは、書き上げてから、読んでもらってから決まるものだ。だから「取らぬ狸の皮算用で自分を語るな」ということになる。
 「明日から本気出す」とか「俺なら書く前からヨユー」と自信満々に思うのは良い。だが、実際に書き出すまで、どうなるのか分からないのが作品というのもだ。

 以上よっつ。どうしてこんな小言のような教訓が必要なのか。詳しく説明しよう。




 言葉の意味とは、前後の文脈[コンテクスト]や、受け取る読者によって変わる。必ずしも制作者の意図通りに動いてくれない。それはまるで、人の介入を拒否する《自然》のように振る舞う。
 自然とは例えば河の流れを思い浮かべてくれればイメージしやすいだろう。常に流れ、また勝手に澱み、一定の決まった形を持たない。いわば「誰かの思い通りにならない」という《流動性》こそが、自然の持つ本来の特性といえよう。
 となると、こうも考えられないだろうか。コンテクストとは、まるで《流動性》を持った自然のように振る舞う。いや、コンテクストとは自然なのだと。

 「山の天気は変わりやすい」という。天気予報を見てから登山をしても、事故を起こす可能性は大いにある。だからといって地図も予報も見ないで登山に挑むとしたら、それは単なるアホだ。
 予報を見るか、見ないか。前者と後者では、同じ事故を起こしたとしても、そこには大きな差があるはずだ。

 優れた登山家ほど、山の天気は変わりやすいのだと知っている。ゆえに優れた登山家ほど山を恐れる。だがその恐怖に立ち向かう、勇気を持っているからこそ登山家は尊敬されるのだ。
 それを「アイツでも出来たのなら、俺でもイケる」というのは、まさしく素人考えだ。仮に今回は無事に帰還できたとしても、冗長したままなら、いつか必ず命を落とすことになるだろう。

 コンテクストが自然だというのならば。読者と、今から書こうとする作品こそが、「思い通りにならない」自然ということになる。
 もしも読者や、作品や、他の書き手さんを舐めているのならば。それは山の天気を舐めているのと変わらない。登山家としては素人ということだ。




 ならば、どのみち事故を起こす可能性があるとしても、素人と《優れた登山家》との間にどんな違いがあるのか。そのためには《職人》について考えてみると良い。
 職人とは単に、物作りを行う人のことではない。自然と共に在ることにより、経験知を蓄積。流動的な自然の中から、結果という固定化されたモノを取り出す技術を持った人たちなのだ。
 例えば、広大な山から鉱石を掘り出す。鉱石から金属を取り出す。氾濫しないよう、河の流れを導く。畑に種を蒔いて、収穫を得る。逆巻く海を渡り、魚を捕る。
 古来日本では武士だって、戦闘職能集団という職人だ。戦争とは人を相手にした、まさに流動的に荒ぶる自然である。また治水技術を持った武士もいたというから、まさに武士とは職人だったといえよう。
 そうやって、大地から恵みを取り出す。結果のあやふやな自然に向き合うため、職人がいるのだ。

 だから職人は、流動性の中から恵みを取り出すすべを知ると共に、自然を恐れる知恵も持っていた。しかし職人の中に冗長した者がいたとして。恵みを得る技術のみが過剰化したらどうなるだろう。
 《手っ取り早く結果だけを得る技術》を推し進めるとどうなるか。《過剰な技術》は、自然物を家畜化させることとなる。例えば野生のイノシシを飼い続けることで、品種改良してブタを作ったように。
 家畜とは、自然から流動性のダイナミズムを剥奪し、人にとって都合の良い存在に作り替えた存在なのだ。




 もしも《手っ取り早く面白い小説の書ける技術》などというものがあったとしよう。だがそれは、物語を家畜化したということに他ならない。そして物語の家畜化とは、人間心理の家畜化をも意味する。
 《手っ取り早く面白い小説の書ける技術》とはつまり、他者を自分に都合の良く、思い通りの奴隷として操る技術なのである。でもコレってさあ、人間に対する凄い侮辱だよね?
 武士として一対一の果たし合いを受けておいて。大勢で夜討ちをかけて勝ちました。剣ではなく、マシンガンを持ち込んで殺しました。そんな勝利が嬉しいのかと聞きたい。

 こうした《人を操る技術》を意図的かつ、大々的に使い出したのが、まずはナチスだった。ナチスで育ったプロパガンダ技術は、やがてナチスを参考に軍を再編成していたアメリカに渡り、ハリウッドで大いに利用された。
 そして戦後日本。GHQから共産圏に対する思想的橋頭堡としての役割を求められ、戦中・大本営が行っていた情報統制を解体させずにマスコミ網を構築。一社の広告代理店のみがテレビ新聞を支配するという体制を整える。実は今でも日本って、軍事独裁政権並みの情報統制システムを持った国ですよ?
 こうした、国家が国民の思想を恣意的に操る政体を《メディア帝国主義》といいます。すげえ国民をバカにしたやり方ですよね。




 例えばね。ムカつくことがありました。矢先に、たまたま剣や銃を手に入れました。あなたは自由に人を殺せます。しかも罰せられることがないというオマケつき。あなたは人を殺しますか? 他人を自由に支配できるとは、こういうことです。
 もちろんボクも詐欺術の類は知っています。小説技法をやっていると、どうしても通ってしまう道なんですね。だが自分の都合では、使わないようにしている。フェアではない。相手を見下した行為だから。
 相手を見下す。それでは、山の天気を舐めた、のぼせ上がった素人と同じになってしまう。技術によって多少は自然を操れるようになったのかもしれない。だが自然の持つ流動性は変わらない。山の天気を舐めた者は、いつか必ず事故を起こすものだ。




 いや違う。どうせ職人だって失敗するなら一緒だろ。一緒なら自分は甘い汁だけ吸っていたい。そう考える人もいるだろう。
 だが同じ失敗でも、ベテラン登山家と、素人とでは、やっていることの意味が違ってくるように。畏怖と敬意の有無で、失敗の意義は変わる。ひとりの職人が撃沈したとしても、経験知は後世に受け継がれる。以後、同じ失敗が繰り返されることはない。

 例えばボクが素晴らしい作品、凄い新技法を手にしたとしよう。でもそれは個人の能力によるものではない。先人たちの努力、という歴史が積み重なった結果。たまたま《結束点》として選ばれたというだけの話だ。
 その意味で技術とは、天からの授かり物だとも考えられる。例えば算額奉納のように。
 江戸時代。数学の問題や解答が発見されると、絵馬に記して神社に奉納するという《算額奉納》という風習があった。数学の問題とは、誰が解いても同じになる。ゆえに数学は神仏からの授かりものだ。だから神社に奉納したのである。ところが算額が奉納された神社は、やがて数学の問題を発表する場となった。そして数学者だけでなく、一般の数学愛好者も大いに算額を奉納するようになったのである。




 もしもこれが「俺だけが」「俺の功績だ」と、得た結果を個人が独占したらどうなるだろう。稚魚を返さず、乱獲する漁のようなものだ。業界はやがて枯れるのみ。巡り巡って自分の首をも絞めるのは確実だ。
 縄文時代の貝塚からは貝殻だけでなく、食べた魚の骨も出てくる。この骨というのが、実に丁寧に残されているという。というのも、どうやら縄文人は、骨を塚に返せば、やがて魚は再び肉という衣をまとって、村へ富を与えに戻ってきてくれると考えていたらしい。だから貝塚からは人骨も見つかる。魚のように、祖霊が戻ってくると考えたのだろう。貝塚とは単なるゴミ捨て場ではないのだ。
 自己とはひとつの通過点に過ぎない。「俺が俺が」という他者へ何も還元しないエゴイズムは、むしろ全ての者にとって邪魔にしかならないのだ。

 南洋では今でも鯨捕りが、小舟に乗って一対一で行われるという。鯨を殺す者は、自分も殺される覚悟が必要だというわけだ。だから海の民は世界的に、墓を持たない場合が多い。海で死ねば、骨も残らないからだ。
 そしてボクも「はま」の名字を受け継ぐ辺りから分かるように。実はリアル先祖が海の民をやってたりする。だからボクは良き狩人であり漁師であり山師であり職人でいたい。
 結果だけ求めても、映画『ソイレントグリーン』の世界に行き着くだけだ。ボクは良き狩人でいたい。培養肉製造工場の管理人なんて、御免被る。




 もちろん《手っ取り早い技術》が存在しないとはいわない。だが知っていても、絶対に教えない。ボクは狩人であり、職人として誇りを持っていたいから。むやみに世間を混乱させるような技術なんて知ってても、墓まで持って行く。
 だけど新技術なんてモノは、第二次世界大戦中における原爆の開発レースのようなものでね。時間の問題で、いつか誰かが同じ技術を開発してしまうもの。ちなみに旧日本軍だって満州においてプルトニウムの採掘を進めていたそうですから。
 もしボクが世界を変えるような技術を開発したが、危険ゆえに黙っていたとしても。他の誰かが同じ技術を開発して、うかつにも公開してしまうかもしれない。でもそれは、その人の問題だ。ボクの誇りとは関係ない。

 結局のところ、料理に使う包丁も、持つ者によって殺人の武器と化すように。技術をどう使うかは、使用者の人格次第というわけだ。なので《奥義》を伝承する際は特に、個人の人格を見定めなければ危険になる。
 昔話でだって、試練を越えて《死からの再生》を果たした者にしか、宝物は与えられない。昔の人は技術の危険性を、そして人は冗長するものだということを良く理解していたのだ。




 ならば小説の試練とは、どのようなものかということになるが。職人のやるべきことなんて、昔から決まっている。職人は手で覚える。だから職人に必要なのは堪え性。それは《手っ取り早さ》とは逆の考え方だ。
 今は工場も、行程を定数化することで自動化が進んでいる。だが数値を入力するのは、やはり人間である。結果、自動化を進めたら、むしろ失敗が多くなったりと。単純な話ではない。
 小説を書くマシンの可能性というのも、昔から語られてきた。だがそんなマシンが完成するには、人間の脳と同等の能力が必要になるだろう。そんなコンピューターは未だに開発されていないし、開発されたとしても民間実用化されるのはいつの話か。
 つまり小説書きを定数化するのは、しばらく無理。求めるだけ時間の無駄というものだろう。いや、実験としては意義があると思いますけどね。

 というわけでボクは「面白い小説を書く方法を教えてくれ」と請われても、古典に則って、わざと困難な道しか指し示さないことにしている。
 ボクの知る「技」とは、寄り道や立ち止まったりすることをなくす。だが、どのみち苦労は避けられない。いわば正しく苦労するためのものだ。だから例えばボクは最近、かなり便利な技法を発見したが。この技法だって前提として、いくつかの修行を経ていないと使いこなせない仕様になっている。
 基礎を修めてもいない人間は、どのみち応用を使いこなすことはできないんだよ。




 すると、「なーんだつまらない。苦労したくないから技術を知りたかったのに」という人が必ず現れる。そういう人は去ってもらって構わない。または、「じゃあ自分は苦労せずに済む、今までにない全く新しい道を歩もう」という人も現れる。だが断言しても良い。苦労せずに済む《近道》なんて、ないよ?
 過去、恐らくは何千年と。面白い作品を書けるのは天才のみの特権であった。ワナビ(小説家志望者)は苦悩すれども、面白い作品を書けない。天才の陰には、挫折したワナビたちの屍山血河が積み重なってきた。
 だが凡才のワナビも、ただ苦悩するだけではない。大勢が生涯をかけて技術を残してきた。その執念の結果として、今があるのだ。今さら、ひとりがゼロから始めたところで、そりゃー出来ることなど限られているに決まっている。

 天才の登場とは全くの偶然。いわば天才の存在も本質的には、流動的な自然に近くなる。そして天才しか面白い作品が書けないとするならば、凡人はどうすれば良いのか。そのために職人がいるのであり、技術がある。
 天才という自然から、少しだけお恵みを頂く。才能という形ない自然から、技術という形あるものを取り出す。凡人たちを襲う「書けない」という災いを、避けるため。「書けない」という絶望を越えるために、技術はある。
 ただし小説というお恵みを頂いた感謝として、書き手は代わりに供物を捧げる。それは技術であるかもしれない、傑作であるかもしれない、優れた後進の育成であるかもしれない。そうして老いた自然はシステム更新され、再び新たな命を取り戻すのだ。
 というわけでボクは自分に生きる張り合いを与えてくれた、《小説さん》に感謝している。つねづね恩を返したいと思っている。たとえ自分が《小説さん》から愛されることがなくとも。
 だけど、それ以前の問題で「俺が俺が」のクレクレ厨なんて、誰も愛してくれるわけがない。自分が愛されたいのなら、まず誰かを愛して与えるところから始めろよと。その上で好きな相手が決して自分を愛してくれないと分かっていても、だったら他の相手と幸福になってくれることを祈るくらいの度量が欲しいところだ。




 ちなみに「恩を返す」とは《対称性の思考》という考え方のひとつになる。人類がホモ・サピエンスに進化した際、脳が肥大化したため、現実にはない妄想を抱くようになった。この妄想の仕方こそが《対称性の思考》ということになる。だが《対称性の思考》こそが源泉となり、ホモ・サピエンスは詩や神話を作り始めた。
 《対称性》とは例えば、恩を受けたら返す。ファンタジーでお馴染みの「行きて帰る」。また前述した鯨捕りの、自分が殺される覚悟というのも対称性の思考になる。それだけではない。山の天気も、算額奉納も、貝塚の骨も、全ては《対称性》の延長線上にある。《対称性》こそ、物語の源泉なのだ。
 実は冒頭で挙げさせてもらった教訓とは、そうした対称性を自分の中に育むトレーニングを兼ねている。

 対して「自分だけ」「損はしないで得だけしたい」とは、非対称の思考ということになる。
 前述した例えならば、武士が果たし合いにおいて、大勢で夜討ちをかけて勝ちました。剣ではなく、マシンガンを持ち込んで殺しました。自分の都合で他人を操り、奴隷扱いしました。自分が得するためなら、相手は不幸になって構わない。アメリカのグローバリゼーションなんて、非対称の好例だ。
 そして非対称の思考とは、人から物語を奪ってゆく。いわばアンチ物語の存在といえよう。だから《手っ取り早い技術》を求めれば求めるほど、本当のところ人は物語の源泉から逆に離れてしまっているのだ。

 けど……手っ取り早いのを求めていたのに、とか。練習ばかりは飽きた、とか。あげくに、技術なんて役に立たないんだ、とか。古典を無視して新しい技法を作る……なんて「分かってない」人がまた現れたりするんだろうなあ。
 ああ、うんざりする。堪え性がなければ、どのみち良い職人にもなれるはずがないんだけどなあ。
 というわけでカネが欲しいとか、承認欲求を満たしたいだけならば。宝くじとか、株とか、貯金とか、就職とか。もっと確実で、性分に合った方法があると思いますので。無理に小説書きを目指す必要はないんじゃないかなあ、と思いますヨ?

 そうではない。どんな苦労も厭わないから、今すぐ自分も何か努力したいという方へ。この「練習道場」では過去の蓄積を参考に、具体的かつ効果的な練習方法を紹介しています。
 ではあなたが、正しく恐怖できる、良き職人になることを祈っておりますよ。。



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