【文脈/コンテクスト】




■コンテクストとは何か
 「文脈[コンテクスト]」とは、文学者に限らず表現行為全般を論じるのに便利な概念です。意味としては、「文章の前後のつながり」だと理解すれば良いでしょう。
 例えば「これはたこです」と言う文があったとする。しかしこの一文だけでは「これは凧です」「これは蛸です」のどちらの意味なのか、判別できません。また違う例として、本当は相手が好きなのだけど素直になれなくて思わず「あんたなんて大嫌い!」と言ってしまうシーンがあったとしましょう。これも表面上では、心の機微や裏腹さまで読み取ることはできません。

 この「前後のつながりが違うことにより、意味が変わってくる」と言う経験。皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか。例えば……
 食事中、同席者に「アレを取ってくれ」と言われたので醤油を手渡したら、「醤油じゃなくて、ソースを取ってほしかったのに」と言われる。
 お爺ちゃんが「キャンデェ」を食べたいと言うので飴玉をあげたところ、お爺ちゃんが言う「キャンデェ」とは「アイスクリーム」のことだった。
 笑い話をしたつもりなのに、みんな笑ってくれないどころか、逆に場が白けてしまった。
 通学中、電車の中で嫌なことがあったので人に話したところ、「そりゃあ、お前のマナーが悪いからだよ」と逆に注意されてしまった。
 カノジョを褒めたつもりが、嫌味に取られてしまった。
 目の前にある容器が、これは皿かお椀か。他人と意見が分かれる。

 自分がある言葉によって表現している事物は、他人も同じ言葉によって表現しているはずだ。他人とのコミュニケーションを取るには、このような前提が必要となってきます。しかし実際には、人によって細かいニュアンスが異なってくるのは当然。また、前後の文章が少し入れ替わることで、意味は全く変わってくるものです。
 そこで自他で共通したコンテクストを持てているか、確認する作業が必要となってきます。これを《コンテクストのすり合わせ》と言います。



■コンテクストのすり合わせ
 《コンテクストのすり合わせ》とは特に、演劇において使われている用語です。
 例えば、劇のとあるシーン。役者Aは自分の演じるキャラクターが、そのシーンで怒っているのだと思った。しかし役者Bは、そのシーンで役者Aの演じるキャラクターは、悲しんでいるものだと考えてしまった。
 このまま舞台練習を開始しても、役者AとB、ふたりの演技は食い違ったものとなってしまいます。ですから事前に、脚本その他演劇全般に対する解釈を、皆の間で一致させる作業が必要となってきます。
 解釈、すなわちコンテクストを共有・一致させる。このような作業が、《コンテスクとのすり合わせ》なのです。



■コンテクストのズレ
 例えば中高生くらいでライトノベルを読んでいるうちに、小説家に憧れるようになった。そこで生まれて初めて小説を書いてみたものの、当然のごとく、巧く行かなかった。良くある話です。
 ではなぜ巧く行かなかったのか。理由はいくつか考えられます。まずは文章作法などの、技術上の問題。しかしこれは、少しの学習によって改善可能でしょう。
 もっと大きな問題は、別のところにあります。

 自分の書いた作品を初めて人に読んでもらった。そこで感想を言ってもらったのだが、例えば、「このキャラはこんな台詞を言わないだろう」、「これでは恋に落ちない」、「御都合主義すぎる」など。面白い面白くない、と言う以前の問題。「読んでいて何となく納得できなかった」と言う感想を貰ってしまった。
 これを文学やシナリオライティングでは、良く「人間が描けていない」と表現します。ですがこの「人間が描けていない」と言う問題も、実はコンテクストに関係しています。

 例えば、「失恋したヒロインが傷心旅行先で男と出会い、新たな恋に落ちる」と言う物語があったとしましょう。「良くあるパターン」で世間に溢れた、しかしそれゆえに王道の物語です。名作と呼べるようなものも、多く存在するでしょう。ですが初心者が同じストーリーラインで小説を書くと、御都合主義すぎて読むに耐えない作品となってしまう。
 この差を生じさせるのが、コンテクストなのです。

 先述の物語ならば、「なぜヒロインは男に恋をしたのか」。作者は読者に「ああ、これなら恋に落ちても仕方ないな」と納得させなければならない。だがどうして、逆に「何となく納得できない」と思われてしまうのか。
 「これならヒロインは恋に落ちる」と言う作者のコンテクストを、読者が共有できていない。ゆえに「読んでいて何となく納得できない」・「人間が描けていない」と言う感想を持たれてしまうのです。
 このように《コンテクストのすり合わせ》が行われていない。もしくは失敗した状態を、《コンテクストのズレ》と言います。



■コンテクストと身体感覚
 では、コンテクストの根拠とはどこにあるのか。そもそも、コンテクストとは何なのでしょうか。
 コンテクストとは基本的に、「何となく納得できるか、できないか」。言葉になる以前の、身体感覚の領域に属します。

 例えば、箸の使い方。
 箸を使うことに慣れた日本人が、いきなりフランス料理のフルコースに招待されたとしたら、どうなるか。まず何かしらの失敗をしでかすことでしょう。これはマナー以前の問題として日本人が、日常的にフォークとナイフを使っての食事に慣れていないからです。
 また同じように、日本人が韓国料理や本格中華の席に正体されたとする。韓国料理や中華なら、箸を使うこともあります。しかしその使い方は、日本食とはまた違っています。そのため、やはり平均的な日本人なら戸惑いとか違和感を抱くことでしょう。
 この違和感は食事のマナーと言う《コンテクストのズレ》により起こっているのです。

 コンテクストとは基本的に、日常生活から来る「慣れ」により「身につく」ものです。
 さきほどのラブストーリーの例ならば、「ヒロインの恋をした気持ち」に対して、読者と《コンテクストのすり合わせ》が出来ているかどうか。これは、ヒロインの恋に、読者である自分の常識からして、共感できるかどうか。恋をした状況に、身体感覚として共有できるかどうか。により決定します。

 また違う例を挙げさせてもらいます。小説内に「美しい夕焼け」のシーンを出すとしましょう。
 これが初心者であったとしたらどうなるか。読者が「夕焼けの美しさ」を納得する前に、「なんてうつくしい夕日だー!」などと、そのままを説明して終わってしまう。小説内の状況を文章化するのに必死で、《コンテクストのすり合わせ》は行われません。

 では「美しい夕焼け」のシーンと言うコンテクストを、読者に共有してもらうためには、どうすれば良いのか。
 文章を通じて「夕焼けの美しさ」を「体感」させてやらなくてはならない。文章をを読んでいて、本人がそのシーンの場所に立っているかのような錯覚を与える。
 つまりはこれが、「描写」と言うものです。



■コンテクストと上達
 創作能力とはイコール、情報伝達能力。すなわち、コミュニケーション能力により決定します。
 そして、コミュニケーション能力が上達するとは同時に、《コンテクストのすり合わせ》が洗練されてきた、と言うことになります。

 小説書きの間で良く、「書いたものは読んでもらわないと、上達できない」と言われます。ではなぜ、人に読んでもらわないと、上達できないのか。
 小説を書き始めたばかりの初心者はまだ、自分の考えを文章にするだけで必死です。読者のことまで意識する余裕はありません。そもそもの問題として、《コンテクストのすり合わせ》とは何なのか。感覚として理解できていない。
 だからこそ読んでもらうことにより、自分の《コンテクスト》がいかに《ズレ》ているか。最初に実感する必要があるのです。

 そうしてまずは《コンテクストのズレ》を意識できたならば。今度こそようやく、《コンテクストのすり合わせ》に挑戦です。
 例えば「ここに句読点を置いた方が、読みやすくなるなあ」とか「もう少し説明を増やした方が、読者が場面をイメージしやすくなるなあ」など。「こう書けば、こう伝わるに違いない」と、読者を想定しながら書く。
 この作業は、イチイチ頭で考えながら書いていたのでは、手が追いつきません。《コンテクストのすり合わせ》はほとんど、勘で行われることでしょう。

 ちなみにこの《コンテクストのすり合わせ》の作業内容を、他人にも伝達可能にしたものが「技術」です。
 だから「技術」は頭で憶えるものではない。真に「技術」を使いこなせるようになるためには、身体感覚を伴ったコンテクストの段階にまで還元しなくてはいけません。ですから「技術」とは反復により「手で覚える」・「慣れ」るしか、他に道はない。
 「技術なんて覚えたせいで、逆に自分が何を書いて良いのか分からなくなってしまった」と言うのは、その人がまだ技術をきちんと、身体感覚を伴うコンテクストとして身に付けていない証拠です。



■テーマよりもコンテクストを
 思いは伝わらなくては意味がありません。価値も生じません。
 ですから、勘違いしないでください。主義・思想・哲学・イデオロギーなど、読者に伝えるべきは「いわゆるテーマ性」などではありません。ひとりよがりな思いだけが先だったコミュニケーションは、たいてい全体主義[ファシズム]的になるものです。
 そしてどんな御大層な思想も、伝えられなければ価値はありません。思いは他者に伝わってこそ、はじめて意味あるものになります。
 ですから憶えておいてください。書き手が伝えるべきはテーマではない。コンテクストである、と。



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