殺人論 その1 かつて《あちら側》にいた人間としての責任 |
|
ボクは、自分で自分を歪んだ人間だと思っている。ただ幾つかの偶然の出会いと、こうやって文章を書くことが、幸運にもボクを変えてくれた。でなければ、自殺していたか、無差別大量虐殺でも起こしていたか。確実にボクの行く末はどちらかだったろう。 「でも今の君は《そう》なってはいないんだろ?」と尋ねられても、ボクは賛同できかねる。今のボクが立っている《こちら側》と《あちら側》との差は本当にごくわずかなものに過ぎないと、知っているからだ。 例えば何年か前、神戸の酒鬼薔薇事件で犯人が《少年》だとニュース速報で流れた時、ボクは思わず「やった!」と歓喜の声を上げたものだ。 つまり、かつてのボクはその程度には歪み、悪意に満ち、意味もない殺人に感情移入できるような人間だったのだ。 ただ言い訳をさせてもらうのなら、「やった!」と言う歓喜の声を上げたのは、ボクが殺人狂のサイコパスだったからではない。時代が来たと確信したからだ。 かつて《道徳》は、殺人の抑止力となっていた。なぜ殺人が罪となっていたかと言うと、人殺しが悪いからで、悪いことは悪いのだからやってはならない。善悪や道徳は何の疑問を抱く隙もない、絶対の価値判断基準である。そんな、理由にもならない理由で、人々は善悪を納得し、生活してきたのだ。 ところが今では、《道徳》は殺人への抑止力たりえていない。人が生きて行く上での大前提であった《道徳》が、何の説得力も持たない時代。「やった」と歓声を上げたのは、そう言う時代が来たと確信できたからだ。 では《道徳》不在の時代は、いきなり、まるで宇宙から突然エイリアンが地球侵略に来るように、何の前兆もなくやってきたのか。違う。必然だ。 過去の人々が《道徳》を絶対の基準として、疑問を持たない期間が長すぎた。生じた社会の歪みは、もうずっと限界だったのだ。それがたまたま、ボクらの生きる今の時代に、「はじけた」と言うだけに過ぎない。 つまりは、過去の世代の人間が、生きるのを怠けてきたツケが、ボクたちの世代に回ってきていると言うわけだ。 過去の世代の人間。ボクたちの《親》の世代の人間と言っても良い。 だがボクたちは、《親》の世代の人たちに対して、そのツケを支払うよう頼むことはできない。 《親》たちはもうすでに、たったひとりの個人として生きてゆくだけの強さをもっていない。社会に依存した期間が長すぎた。物事を考える訓練をしない間に、訓練の仕方まで失われてしまっている。 《親》は自分たちが戦後の日本を復興させるため、お前ら《子》を育てるため、ただ今を生活するために粉骨砕身してきた。感謝しろと言う。 感謝はするけど、でもボクらだって、これから日々の糧を得なければならない苦しみなら、あんたたち《親》と変わりないだろうと思う。 日本は確かに経済的には豊かになったかもしれないが、精神の豊穣さが、どこにあると言うのか。先祖代々の豊かな土壌は、あんたたち《親》たちが食い荒らしたせいで、不毛の地となっている。 ボクたちが人生に迷った時に、あんたたちが「お受験」以外に、道を指し示してくれたことがあったのか。 「お受験」だけではない。本来、人にとって《道徳》こそが生きるために必要な指針であり、その《道徳》を《子》に教え導くことこそが、《親》の役目だったはずだ。 なのに気がついたら、日本は誰ひとり「なぜ《道徳》を守らなければならないのか」と言う問いに答えられないような国になってしまった。 そりゃあ、これから死ぬだけの人間にしてみれば、未来なんてどうでも良いかもしれない。でもボクたちは「これから」を生きてゆかなくてはならない。 あんたら《親》は生活にだけ苦しめば良かったかもしれないが、ボクら《子》は生活の糧を得る苦しみに加えて、《親》の残した膨大な不良債権まで背負って生きてゆかなくてはならないのだ。 いい加減にしろと言いたい。 だからボクは自問自答する。かつてのボクのように、世界を憎み、悪意に満ち、誰も信じられないような少年が、今のボクの目の前に現れたら、一体ボクは何をすれば良いのだろう。どのような言論を持ちうるだろうか、と。 これは杞憂ではない。 一度は《あちら側》に立っていたボクだからこそわかる。《こちら側》の希望なんて知らずに育ち、《あちら側》に行きっぱなしになるような人間が、これからはもっと増えるはずだ。間違いない。 そのためには、《道徳》が人を導かない時代の到来に対し、自分たちで新たな《道徳》をイチから作らなければならない。何よりも、ボクらのために。そして、ボクらがやがて《親》となった時に、《子》に道を指し示すことができるようになるために。 特にボク自身が二度と《あちら側》に戻らないようにするため、ボクは「なぜ人を殺してはならないのか」と言うお題目に答える義務がある。勝手にそう思い込んでいる。義務と言うよりは、責任と言った方が良いかもしれない。 ……つまりはただ単に、「他人事とは思えない」のだ。 |