殺人論 その2

   殺人が《不法》である理由 (1)




 最初に断言すると、ボクは、人を殺してはいけないと考えている。

 別に、《道徳》に反しているから駄目だとか、自分が嫌だと思うことを他人にしてはならないから駄目だとか、言うつもりはない。ましてや、善悪を引き合いにするつもりはない。「悪いから悪い」なんて理由にもならない。
 なぜ人を殺してはならないのか。もっともわかりやすい理由は、《法》に反しているから。罰を与えられるから、と言うものだ。
誰かを殺せば、自分も殺されることを含め、罰と言う損害を受ける。それが嫌なら「悪いこと」をしなければ良い。

 ただこの論理では、死ぬのが恐くない人間は何をしても良いと言うことになる。
 死ぬのが恐くない人間なんていない、と言う意見は間違いである。例えば寿命を間近に控えた老人が罪を犯したとする。罪を犯すことで何十年もの懲役を課せられるとしても、その前に死ぬのなら、恐いものはなくなる。
 それでは瀕死の老人は誰でも、恐いもの知らずになるのか。違う。もちろん老人は肉体的な衰えもあって無茶できないとか、色々と事情もあるだろうが、関係ない。老人は比喩に過ぎない。

 ボクは考える。人は自ら望んで、悪を行わないのだ、と。

 《殺人》を心理学的な観点として見てみよう。あえて《道徳》的な価値判断基準を無視する。《殺人》が人に与える機能と結果のみを考えるのだ。

 人の心は、他人に同情する働きを持っている。感情移入と言い換えても良いだろう。つまりは、他人と自分を同じ、もしくは似た存在だと考える。これを《共感》と言う。
 この《共感》により、人は他人とコミュニケーションを持つことができる。他人を自分と同じ、もしくは似た存在と思う。自分と他人が同じ言葉を共有していると信じることが、コミュニケーションの前提なのだ。

 もちろん、他人が自分と同じなんてのは幻想に過ぎない。
 他人とは、自分とは違う存在だ。互いに理解しあうことは出来ない。だから自分が嫌だと感じる行為を、誰かにしたところで、別に自分は痛くも痒くもない。同情なんて、勝手されても困ると言えば困る。
 だがこれは仕方のない話で、人間の脳や心はもともとそう言った機能を生まれ持っている。もうこれは逃げようがない。

 仕方がないから、人は出来るだけ理解可能な《もの》とだけ接触し、出来るだけ理解可能な《もの》だけを自分の周囲にコレクションしようとする。人はそうやって、自分に似た、都合の良い《他者》しか見ようとしない生き物なのだ。
 だから《他者》とは、理解不可能な異物であると同時に、自分自身の姿を映した、自分に良く似た存在と言える。もはやイコールでもう一人の自分自身であると言っても良いかもしれない。
 誰が言い出したのかは知らないが「他人は自分を映す鏡」とはうまく言ったものだと、ボクも思う。

 他人が存在するからこそ、自分の存在を確認できる。《自己》は《絆》で出来ている。《絆》と言う糸はやがて多く集まり、社会と言う織物となる。
 だが自分と似た存在であると言っても、他人は他人である。理解不能な存在だ。理解不能な相手と付き合うにはどうすれば良いか。互いに取り決めを作れば良い。
 そうすれば、《他者》と言う未知なる存在は、最低でも自分に危害を与えるような存在ではなくなる。もしかすると、有益な存在にもなりうる。

 盗まれたくないから、自分も盗まない。殺されたくないから、自分も殺さない。こうして作られた取り決めから《法》は生まれた。
 原初的な《法》は、《絆》を守るための取り決めだったと、ボクは考える。

(社会契約論って、確かこんなのだったよな?)

 つまり、人として誰かとの《絆》をつないでいたいと望むのなら、社会の成員でいたいのなら、人を殺してはならない。
 でなければ、社会から排除されるし、また排除されなければならない。完全に社会から排除されて生きてゆける人間は少ない。だから人を殺してはならない。

 だがここまででは、先述の「瀕死の老人」の問いに対する答えにはならない。
 本当は《殺人》は、社会から排除されるべき存在となる、以上の意味を持っている。



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