殺人論 その3

   殺人が《不法》である理由 (2)




 先述したが、人は他人と自分とを同一視させようとする、《共感》能力を持っている。《共感》こそがコミュニケーションの大前提である。
 この《共感》として《殺人》を考えると、つまりは《殺人》が与える精神的な側面を考えた場合、《殺人》の意味合いは変わってくる。

 《殺人》とは、生命活動の停止の強要、人体の損壊、死体の生産行為だけを意味するのではない。
 「殺す」のと「死なせてしまう」のとは違う。
 でなければ、例えばボクたちだって知らぬ間に、誰かを「死なせて」いるかもしれない。他人との関わりを持たない人間なんていないのだから、極論すれば、誰かを「死なせた」ことのない人間だっていないことになる。
 自らの行為が原因となって誰かを「死なせた」ことが、意識上に浮かび上がった時、はじめて人は人を「殺した」ことになる。
 つまり《殺人》とは意識的に死を与えることであり、《殺人》の本来の意味とは、相手の人格を否定する行為であると、ボクは考えている。

 そう考えると、相手の尊厳と自由意志を破壊し、踏みにじり、支配する行為も、広い意味での《殺人》と言える。
 肉体ではなく《魂》を殺しているのだ。
 例えばレイプ、児童虐待、拷問、そして敵兵への銃撃。
 ただ動機が少し違うだけに過ぎない。自分に恐怖を与える《他者》を排除したいから。自分の身勝手な欲望の充足には、相手の自由意志が邪魔だから。
 やっていることの意味は同じ、自分にとって都合の悪い《他者》の排除だ。

 さてここからが問題となる。
 《他者》性の排除とは、相手を自分と同じ独立した人格を持った人間ではない、単なるモノであると考えることである。
 つまりは自分の《共感》の否定だ。

 確かに唯物論的に考えれば、人だってモノと変わりはないだろう。
 肉体は分子機械に過ぎない。精神はニューロンを走る電気情報に過ぎない。死んだ人は「死人」ではなく「死体」に過ぎない。人の命に価値がないのと同じくらい、人の死には意味がないのかもしれない。
 それを否定し、魂とか天国とか、想像することで人は人を最後の瞬間まで、モノではない、特別な存在たらしめようとする。
 葬式は、人のモノ化を否定する儀式だ。

 《意味》とは《差異》である。
 自分だけが特別で唯一の存在だと考えるのは間違っている。唯我論は、自分以外の《他者》を認めない。《差異》のない世界観だ。
 逆なのだ。
 人とモノは違うと考えるからこそ、他人が特別な存在になり、自分も特別な《意味》ある存在となれる。《他者》が自分と同じ人格を持った特別な存在だと認めることで、同じく自分の存在にも特別な《意味》があると認めることができるようになる。
 《共感》は一方通行にのみ働くのではない。他人がいるからこそ自分がいるのだし、自分がいるからこそ他人がいる。《共感》は相互関係なのだ。

 《他者》を殺すことは《絆》の破壊であり、《絆》の破壊は自己否定となる。つまり人は人を殺すことで、自分を殺すことになる。
 「他人は自分を映す鏡」である。その鏡を失えば、自己も見失うのは道理なのだ。

 そして《自己否定》は、人間にとって最高の苦痛のひとつである。それこそ、自殺した方が楽なくらいに。
 その痛みに耐えられる人間などいない。
 人は自分と同じ、人を殺すことに耐えられないのだ。

 これで「瀕死の老人」が自暴自棄を起こさない理由が説明できるだろう。今まで積み重ねてきた自分の大切な思い出を壊したくないから、苦痛だから、人は人を殺さないのだ。


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