偶然の技法 その8



 安易に偶然を使っては、御都合主義と思われてしまう。そこで御都合主義とい ならばここから、他者との偶然の出会いが、どうやって必然化するか。どのような内的変化が起こっているのだろうか。
 当然、最初は《他者》を受け入れられないはずだ。なにせ、受け入れがたいがゆえの《他者》なのだから。だから例えば、近親憎悪のような状態になる。
 しかし《他者》と触れ合い理解し合うことで、「自分とは違う」という他者性は《差異》として認識されるようになる。《差異》は《アフォーダンス》になり、自分にとって特別な《意味》が生まれる。
 この段階で既に《他者》は受け入れられない存在ではなくなっている。他人は単なる異物ではなく、自分とは違った意思を持つ「もうひとりの自分」と化す。
 こうなると、もう堤防に穴が開いたようなものだ。「自分の変化」という洪水は止まらない。こうして自分が大きな変化を起こすのだから、これはまさに《事件》だということになるだろう。

 すると、《他者》との出会いによって自分が変わってしまったため、同時に自分の《影》を作り出していた《問題》も根本的な変化を起こしてしまったことに気付くだろう。
 例えば、問題が解決され満たされてしまったかもしれない。問題解決が必要なくなったかもしれない。いや、もしかすると諦めるというのも変化のひとつだろう。ともかく、そこには新しくなった自分がいる。
 新しくなった自分にとって、変化のきっかけとなった出会いは、起こるべくして起こったとしか思えないはずだ。まるで運命のように。もちろんこの考えは時系列的に逆行している。出会いとは、あくまで偶然であり、特別な理由はないはずだ。そこへ《個性化》でもって特別な理由を付与させ、必然の運命だと思わせるようになった。それは問題を抱えていた自分の方だ。
 運命とは内的なものなのである。

 ……と以上のように「運命みたいに必然的な偶然の出会い」が起こると感じるのは、物語内のキャラクターにとっての話である。現実問題、作者はそうした内的変化まで考えてストーリーを作っているのだから、偶然であるわけがない。
 ただキャラクターと、キャラクターに感情移入して作品を読んでいる読者にとっては、「ああ、あの偶然の出会いは運命だったのだなあ」と思ってもらわなくちゃー、困るわけだ。
 物語中の偶然とは、必然だから起こるのではない。作者か、キャラクターか、読者か、さもなくば物語上の都合か。ともかく誰かにとって必要だから、将来的に必要となるから起こるのだ。

 すると重要なのは、「事件が起こって、それでどうなった?」ということを、きちんと描写する。ドラマをきちんと構築することなのだ。
 これが偶然を《毒消し》する、とっておきの方法である。まさしく定型。


 さてシメになる。
 結局のところ、偶然と必然の差は、物語にとって余り意味はない。問題なのは、偶然や必然による驚きで、読者をどう感動させるかだ。

 演劇で、舞台の陰にいて、俳優がせりふをまちがえたり、つかえたりしたときに小声で教える人のことを「プロンプター」と呼ぶ。作者がプロンプターになって、いちいち「感動したでしょ? でしょ?」と耳打ちされたのでは、役者も観客も興ざめだ。
 同様に、作者にとっての偶然必然は、読者に必要ない。また逆に、特筆すべき必要もないのなら、偶然必然の差など、わざわざ書くこともないだろう。余計になってしまう。

 大事なのは、キャラクターと読者にとって、偶然か必然なのかどうかだ。なぜなら、そこは特筆すべき瞬間なのだから。
 作者が意図的に作ったシーンであっても、キャラとキャラに感情移入した読者は、運命と思ってくれるものだ。後は読者が勝手につなげて、物語化してくれる。
 えーかげんな話だと思われるかもしれないが、実際にそんなものだ。後は作者が描写という仕事を、手を抜かずにやるだけである。


← Return


Back to Menu