「読者のために書く」技術
       〜創作精神論から技術論へ〜


 難易度 : ☆☆ ☆ (奥義)

 習得前提技術 : 特になし



 ボクは普段から「小説は読者のために書くべきだ」と主張しています。すると中には、「自分のために小説を書いて何が悪い!」と怒り出してしまう人が少なくない。なるほど。確かに「自分のために書く」と言う意識は、書き進めるためのモチベーションとしては有効かもしれません。しかし、「自分のため」だけで素晴らしい作品を書くことが出来るかと言うと、かなり疑問が残ってしまいます。
 いやむしろ、過剰な自意識は作品のクオリティ向上のためには邪魔になる場合もある、と考えても良いでしょう。

 ひとつの作品を完成させると言う行為は、かなりの労力を必要とする作業です。自分のために何かしらの見返りでも期待できないと、とてもではないがやっていられません。だからモチベーションと言う目的を、自分で自分に設定する。書いていて自分が楽しいから書く。書き上がると自分が嬉しい。
 ……でも、そんな「書く理由」は、日常的に文章を書き慣れた人にとっては、ごく当然の感情でしかありません。「書く喜び」を味わえるのは、初心者のうちだけで、案外とすぐに慣れてしまうものです。
 「小説を書く喜び」とは果たして、これっぽちのものなのでしょうか。違います。説明した以上の理由からは、「自分が書いた作品を読んでもらう喜び」が欠けています。

 自分が書いた作品を誰か他の人に読んでもらう。そして面白いと言ってもらう。すると嬉しい。
 確かに、必ずしも「読んでもらう喜び」を味わえるとは限りません。作品の評価はいつも、読者が決定するものです。どちらかと言うと、苦い思いをすることの方が多いかもしれません。「自分が書く喜び」だけで満足していれば、余計な苦しみなんて味わう必要はなかったのかもしれない。でもそのままでは、「読んでもらう喜び」と言う、より大きな喜びを味わえることもありません。
 やっぱり小説を書くのなら、読者に喜んでもらいたい、より良い作品を書けるようになるたい、と思うのは素直な本音だと思うのです。
 だからボクは、より良い作品を書きたいのなら、「読者のために書く」と言う意識が必要不可欠だ。作者がモチベーションを持っているか否か、なんて作品の出来不出来には関係ない、と主張するようにしているのです。

 では「読者のために書く」と言う、一見では精神論的な心得にしか思えないような意識が、なぜ「より良い作品を書く」ために必要なのか。技術論として説明させてもらいます。
 そのためにまず、言語が持つ基本的な性質から説明しなければなりません。

 人間は自分の気持ちを、自分がイメージした「ありのまま」に伝えることはできません。自分の気持ちを他人に伝えたければ、「言葉」を使わなくてはならない。では、言葉を使って思いを伝える、と言う作業にはどのようなプロセスがあるのか。

 情報の発信者がいる。
 発信者が伝えたいデータを「言葉」と言う一種の記号に置き換える。
 発信者の「言葉」を読んだ受信者は、言葉をイメージとして翻訳・還元する。

 他人に言葉が通じる、と言う一連の工程には、これだけの複雑な作用が働いています。以上を図式化するとこのようになるでしょうか。

発信者(=作者)のデータ

エンコード(=データの文章化)

符号に置き換えられたデータ(=言葉)

デコード(=文章の読解)

受信者(=読者)のイメージ

 発信者のデータを文章化する作業と、受信者が文章を読解する作業。このふたつをパソコン用語に置き換えるなら、文章化は「エンコード」、読解は「デコード」と言うことになるでしょう。
 「エンコード(encode)」とは、データを一定の規則に基づいて符号化することを言います。そしてこの「エンコード」と対になっている用語が「デコード」です。「デコード(decode)」とは、一定の規則に基づいて符号化されたデータを復号し、もとのデータを取り出すことを言います。

 ここで重要なのは、発信者と受信者とで共有のコード(言語体系)を持っていないと、互いに情報を交換・伝達することはできない、と言うことです。
 例えば、周囲の人間は日本語しか理解できない。しかし自分は英語と日本語の両方を理解し使うことができる。だからと言って異なるコードである英語で表現活動を行ったところで、誰かに自分を理解されることはありません。
 今度はパソコンで例えるなら、画像データを音楽ソフトで再生することが出来ないのと同じことです。
 だからこそ、相手のコードに合わせて表現活動を行う。これが「読者のために書く」と言うことの第一段階になります。そう。「読者のために書く」のには、更に次の段階が存在します。


 情報の発信者と受信者とで共通のコードを持っていたとしても、言葉によるコミュニケーションでは、エンコードとデコードの段階で必ず情報モレが生じます。
 例えば、人の持つメディアでも最高クラスの写実性を持つ、写真を考えてもみてください。ある日、夕焼け空があまりに美しかったので、光景を撮影して写真に納めたとしましょう。だが現像された写真では、その日の夕焼けの感動を全然伝えられなかった。そもそも、小さな写真では空の大きさを表現できなかった。そんな経験は珍しいものではないはずです。
 しかしこれは、ある意味で仕方がないことでもあります。

 情報の発信者が持っているデータを「言葉」に置き換える際。すなわち「エンコード」の段階で、発信者が伝えたいイメージの大半は切り捨てられることになります。これは言葉が持つ特性上、どうしても避けられません。
 例えば、AくんとBさんが喧嘩しています。ふたりとも怒っています。では「Aの怒り」と「Bの怒り」。ABの怒りは全く同じものか? そんなことはありませんよね。両者とも表面的には同じような「怒り」と言う感情表現を行っていたとしても、その内容は同じではない。
 しかし、ひとことの言葉では、そんなニュアンスまで表現することは出来ない。だから些細な違いを切り捨てて、両者の感情を「怒り」と言う大雑把なレッテルで括ってしまわざるを得ないのです。
 だがもしも、発信者の本当に伝えたいことが、その切り捨てられた中にこそ存在していたとしたら、どうするか。

 イメージが浮かぶまま、思いついたままを言葉にすれば良いのでしょうか。しかし、そんな「ありのまま」を書くだけでは大抵、読むだけで辛いような作品が出来上がるのがオチです。
 こんな実験がありました。友人との楽しかった会話を録音して、文章として書き下ろす。それを後で改めて読むと、どんな感想を持つことになるか。ほとんどの場合は支離滅裂な内容で、とてもではないが読めたものではないことになるそうです。
 なぜなら、人間の発想とは元来が、順不同に行われるもの。支離滅裂なのは脳の性質上、仕方がない。だから、読者がデコード可能な文章を書こうと思ったら、不要な部分は切り捨てて、思いついた発想を順番通りに並べて文章化しなければならないのです。
 いわゆる日本語作法とはこの、相手に「伝えやすくする」ためのテクニックだと思って構いません。

 そのうえ「デコード」の段階でも、言葉が持つ基本的特性上、逃れられない問題が存在します。人は自分が認識できる範囲内でしか、世界を理解できないのです。これを簡単な例えで説明するなら、生まれつき視覚を持たない人間に、色の概念は理解できない、と言うことになるでしょうか。
 言葉が行っているのは、何か新しいものの「移動」なんかではありません。受信者が既に持っている何かが、言葉により刺激されて、改めてイメージのかたちになって浮かび上がっているだけなのです。

 そのため、言葉によるコミュニケーションには、必ずどこかで誤解が生じます。エンコードの段階で情報ロスが生じ、デコードの段階でも情報ロスが生じる。だから、幾ら頑張ってみたとしても、そうですね……発信者が伝えたいことの50%も受信者に伝えられれば、満点と言ったところではないでしょうか。
 もちろん研鑽によっては、情報ロスは少なくなるでしょう。だが、思ったことを100%伝えるのは絶対に不可能。99.99999……と小数点以下が永遠に続くだけ。100に近付くことはあっても、100になれることはあり得ません。
 しかし、言葉で100%全ての思いを伝えることは出来なくても、もしかすると120や200の感動ならば与えることは出来るかもしれない。そのための小説技法の出番なのです。

 先程ボクは、言葉が「連想の媒介」として作用すると説明しました。それこそ、何の意味もない天井のシミが顔に見えてくるように。
 ならば、こうは考えられないでしょうか。言葉を利用して、読者の感動を引き出すことは出来ないか、と。
 それは既に、情報伝達や、情報共有、コミュニケーションですらありません。言葉が持つ本来の働きを越えている。人心操作、マインドコントロール、催眠術のたぐいと言っても良いでしょう。

 実例として挙げるなら、「レティサンス(故意の言い落とし)」と言う技法があります。あえて全てを語らないことで、勝手に読者が余計な想像力をしてしまうよう仕向ける、と言う技法です。
 あと描写技法も基本的には、作者が伝えたいことを「ありのまま」に書かない。イメージの断片から全体像を浮かび上がらせる。いま自分が書いている文章を、読者がどのようにデコードするか。想定しながら書くための技法なのです。

 だから、あらゆる小説技法は、「いま自分が書いている文章を、読者がどのようにデコードするか。想定しながら書く」ことにより、効果は倍増されます。逆に、何も考えずに書くだけ、「ありのまま」に書くだけでは、何も伝えられません。また小説の腕が上達することもありません。作品の価値を判断するのは、読者です。
 以上の理由によりボクは、より良い作品を書きたかったら、小説の腕を上げたいのなら、読者のためを考えて書かなくてはならないよ、と言うようにしています。

 そうではない。「読者のために書く」以外の「自分さえ良ければ構わないじゃないか」的な理由でもって小説を書いている方々。これはもしかして、より良い作品を書きたいわけでもなければ、小説の腕を上げたいわけでもないかもしれません。確かにそれはそれで、プロを目指すとか、インターネットで発表するとか。読者を持たない限りならば、趣味で続けるだけならば、更には読者の称賛なんて期待しない限りは、許されるのでしょう。

 ただし、やはり読者の存在を前提とした文章を書くのなら、読者のために書く。もちろん、全ての思惑が成功するとは限りません。誤解を呼んでしまうこともあるでしょう。だからと言って、最初から努力を放棄していては、何かが成功する可能性なんてゼロになってしまう。
 そんな作品を読者に読ませるのって、すごく失礼な行為ですよね。
 「伝える」ために最大限の努力を行うと言う行為は、精神論とか技術論以前の問題、人として最低限の礼儀なのだとボクは思うのです。


 応用範囲 → 創作活動全般



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