自分が本当に書きたいものを知ろう
その4

自分の顔は鏡を使わずに見られない



 確かに好き嫌いは主観であり、理由理屈は関係ありません。ですが、なぜ自分はそれが好きなのか、嫌いなのか。理由を分析することは、論説力の良き修業となります。

 勉強も、自分だけが問題を解けるよう憶えるだけなら難しくなかったとしても。憶えた知識を他人に教えようとすると、より深い完全な理解が必要となります。
 同じように、感情を理論に突き詰めるのは難しい作業ですが。その理論を更に作品として昇華するとなると、もっと高度な突き詰めが必要となります。

 そして、感情を理論に突き詰めるのが、批評の基本。好き嫌いというのは自分だけの主観であり、他人には伝えにくいものですが。それを分析して理論化することで、他人も共有できるような客観性を得ることができます。

 映画を見たり、小説を読んだ感想にしたって。「凄い」「楽しい」「良かった」「悪かった」と感情をそのまま書いたって、他の人には伝わりません。文章技術的にいうと、形容詞だけで描写ができていない。
 自分の感情を曖昧なまま、抽象的なままで、突き詰めていないままでは、他人にも伝えられません。他人に伝わるよう描写するには、具体的な理論にまで落とし込まなければなりません。

 例えばあなたは、ハンバーガーが好きだったとしましょう。ハンバーガーが好きだから突き詰めようと、ハンバーガーをたくさん食べ比べしてみる。
 すると、どうやら自分はチーズバーガーはあまり好きではないようだ。だがテリヤキバーガーは特に大好きだ。この差はどこにあるのか、理由を探ってみる。
 また自分はハンバーグ好きだとしても、ハンバーグとパンズ、どちらにこだわりがあるのか。やはり、その差を探ってみる。
 こうして、あなたの「好き」が詳細に突き詰められました。ここまで来ると既に、単なるハンバーガー好きではない。ハンバーガーに対して、しっかりした意見を持った評論家になっているといえるでしょう。

 というように自分の好き嫌いを知ることは、論説力と更に、批評能力の向上にもなります。
 そうして主観と客観、両の車輪を得てこそ、あなたの思いは地に足の着いた文学として表現可能になるでしょう。
 文は人なり。ならばまずは、己という、最も身近な自分を知らなければ。文学者としては未熟なままです。

 万が一、あなたが小説書きの天才だったとして。具体的には、何の天才なのでしょうか。
 ストーリー作りの天才なのか。文章の天才なのか。発想の天才なのか。仮に、あなたはキャラクター作りの天才だったとしても、キャラクターの魅力を捨てた作品で勝負したって勝てるはずがありません。
 自分で自分を知らないと、せっかくの才能も持ち腐れのままになります。

 逆にいうと、つまり最初からの天才なんて存在しないということなんですね。天才は天才で、自分自身と悪戦苦闘し、才能という暴れ馬を御さなければならない。そのためには長い戦いの期間が必要となります。
 また凡才だったとしても、自分の好き嫌いを誰も真似ができないほどに深めていった結果。もはや天才と呼ぶしかない怪物となるかもしれません。
 つまり本当の天才などというものは、自分の好き嫌いを、とことんまで突き詰めた結果論に過ぎないんですね。


← Return

Next →


Back to Menu