【無意識/むいしき】




 自分のしていることに気づいていないこと。また、そのさま。精神分析学で、意識下の領域、種々の人間現象の背後にあって影響を与える混沌としたもの。潜在意識。

 心理学のえらい人であるフロイトが言い出すまで「無意識」と言う概念はなかった。「無意識」が存在しないのではない。「無意識」は存在していたが知らなかった。何となく意識していた人もいたかもしれないが、一般的には知られていなかったのだ。

 だからそれまでは、何か「悪いこと」をしても、「出来心」とか「思わず」とかの言い訳は通用しなかった。
 人は神が作りたもうた神の子である。神は絶対なる善の存在である。その善なる神の子である人も、やはり善なる存在である。
 本来は善なる存在である人が悪いことをするのは、悪魔に取りつかれているからか、そいつ自身が悪魔だったからか。

 そのような従来の価値観からすれば、無意識の存在は都合の悪いものだ。無意識は、理性が絶対ではないと論じる。
 理性の前提とは、自分の精神を自分で把握できることである。自分で自分を把握できない、理解できない状態と言うのは、狂気に他ならない。なのに精神の大半は、理性によって把握できない「無意識」だと言う。
 「無意識」は理性と、理性によって把握できる世界の狭さを明らかにしてしまった。
 そして、善も神も、理性の範疇の産物だ。

 すると、一般社会にとっての悪事が、個人にとっての善である可能性だって出て来る。
 誰の規範も関係ない。ただ自分が自分であるために、なすべきことをした。それがたまたま「悪」だった、と言う可能性だって出て来る。
 人の善も理性も、世界の前には当てにならない。狂気が悪である、とは言い切れない。
 人の精神は理性のためにあるのではなく、ただ「あるがまま」にあるために存在するのだ。

 ところで、物語中の登場人物が無意識を持っているかどうか、無意識の概念を取り入れるかどうかは、重要な問題となる。
 主人公には片思いの相手がいる。優しくて、几帳面で、面倒見が良くて、理想の性格だ。だが「無意識」と言うことを考えると、それに疑いが出てくる。
 主人公がその相手に恋をしたのは、相手の性格が良かったからだとしよう。しかし、その「良い性格」が演技だとしたらどうなるのか。もしくは、そのような自分の性格が嫌いだったとしたらどうなるのか。人当たりの良い性格でいなければならないと言う強迫観念が、本来の自己を抑圧していたとしたらどうなるのか。
 果たして主人公は相手の何に恋をしたのか。「良い性格」を持った、理想の相手だから恋をしたのか。都合が良い相手だから恋をしたのか。ならば、その相手が「本当の自分」を出すことで、都合の悪い存在になってしまえば、恋は冷めるのか。

 「無意識」の概念は、ただ単に都合が良いだけの人間なんていない、と教えてくれる。だがそれがリアルと言うものだろう。
 かと言って、物語中の登場人物が持つ無意識まで考えていると、語り手の苦労は倍増する。物語の登場人物だけは、都合の良い存在のままでいさせるのも、ひとつの手ではあるのだ。



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