【ラポール/らぽーる】




 心理学用語。互いに親しい感情が通い合う状態。打ちとけて話ができる関係。心理療法などで面接者と被面接者の間に必要とされる。

 「相手を理解する」ことは、実は、ある程度までなら難しいことではない。
 要は、ちょっとした心理学の知識と、推理力と、観察力と、演技力のテクニックだ。一流の占い師か詐欺師なら、誰でも身につけている。

 良く、理想の恋人の条件の中に「自分を理解してくれる人間」と言うものがあるだろう。
 人は、自分を理解してくれる人間に対して、こう思うのだ。自分を理解してくれているのは、自分のことを真剣に考え、思いやってくれているからに違いない、と。
 そうして人は、自分を理解してくれる人間に、いともたやすく強い依存心を抱いてしまう。相手が異性ならその依存心を、恋心とでも勘違いするだろう。

 だからカウンセラーは、クライアントに依存されないように、また恋されないように気をつけているそうだ。
 人間の世界観とは、自分の周囲の人間関係からできている。ひとりの人間に対して、信頼感が集中しすぎると、信頼は依存へと変わる。

 しかしこれは一種の洗脳のテクニックにもなり得る。新興宗教の勧誘や、新入社員研修では珍しくない。
 相手を理解してあげることで、強い信頼を得る。また相手を理解できているのだから、先回りして欲求を満たしてやることもできる。そうやって、爪先から頭の上まで、どっぷりと甘やかしてやる。
 そうなっても本人は、自分の意思で物事を決めていると思っているだろう。だが実際は、目の前にニンジンをぶら下げられて懸命に走る馬と同じだ。自由意志そのものを、他人に誘導され操作されているに過ぎない。
 あとは、新興宗教に入信させるなり、インチキな契約書にハンコを貰うなり、恋人と言う名目で奴隷にするなり、好きに利用すれば良い。

 特に、「都会の東京砂漠で人生に疲れて孤独な思いをする寂しいOL」とか「独り暮らしの寂しいお年寄り」なんて相手には、イチコロだ。
 だから考えなければならない。

 自分と仲の良い人間が、自分を理解してくれているとは限らない。互いに互いを理解していないからこそ、互いの汚い面が見えていないだけかもしれない。
 自分を理解してくれる人間が、本当に自分のことを思いやってくれているとは限らない。自分を利用しようと企む人間は、えてして「優しい人間」と言う仮面をかぶっているものだ。
 自分を理解してくれることと、本当に自分を思いやってくれることとは違う。一方だけが上位に立ち、利用と損得の上に成り立つような人間関係は、信頼ではない。依存と言うのだ。
 だからもしかすると、真剣に自分のことを考えてくれて、自分のことを理解してくれる人間の方が、自分にとっては都合の悪い存在であるかもしれない。

 ま、確かに依存「させられている」ことに気付かせず、相手を好き勝手に利用している方が、便利だろう。誰かに依存している自分の弱さに気付かないまま、何の疑問も抱かないようにしていた方が、楽だろう。
 でもボクはどうしても「本来、人と人とは対等であるし、そうあるべきだ」とか青臭いことを本気で思ってしまう。「愛してあげる代わりに、良い子でいなさい」なんてのは本当の愛情ではない、と声高に叫びたくなる。

 だから恋愛小説やギャルゲーなんかで、こんなストーリーのものがある。
 「傷ついた心を癒してくれた相手に恋しました」とか。「困っている人を助けたから、信頼を得て愛を告白されました」とか。
 そんなのを見るていると、嫌な気分になる。

 それって、相手を利用しているだけじゃないか。相手が自分に恋することがないとわかっていても、無償とわかっていても、果たして主人公は相手を助けていたのか?
 なんて天の邪鬼なことを考えてしまうのだ。



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