「逃避した表現」に関する注意 その1 「逃避した表現」とは何か |
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ところで、浦島太郎の童謡に「絵にも描けない美しさ」と言う歌詞が出てきますよね。実はボク、この歌詞が大嫌いなんです。 描写が困難なモチーフがあるのは、仕方がないとしても。小説書きが「描写不可能」だと宣言するのは、表現者としての逃避ではないでしょうか。と共に、小説と言う表現方法への侮辱にも近いと言えるでしょう。 そのような、小説をバカにした小説を読むと、すごく不愉快になります。
ちなみに「――」の正確な呼称は「ナカセン」だとのことです。「ダッシュ」ではないらしいです。しかし、IMEでもATOKでも「ナカセン」では変換できないのに、「ダッシュ」で変換されてしまうのは如何なものか。 とまあ、それはさておき。 以上の《逃避した表現》ですが。実は、「絶対に禁止!」と言うわけではないのです。また、以上の単語を使ったからと言って、即、《逃避した表現》になるとも限りません。多少なら使っていても、気にはならないでしょう。 だからと言って、何も考えずに、そのまま書いてはいけない。 まず《逃避した文章》とは何なのか説明させてもらいますと。《逃避した表現》には主に、二種類が存在するようです。 ひとつは、どうとでも意味が取れる曖昧な表現。そしてもうひとつは、慣用的に使われている省略された表現です。 曖昧な表現の例としては、「言葉に出来ないほど」、「わけが分からないうちに」、「気が付くと」、「いろいろあって」、「〜〜とか」、「〜〜したり」、「〜〜くらい」など。ああ、それから。主語が誰か分からないとか、目的語が何か分からない、と言った文章も曖昧表現の内に入ることになります。 対し、ナカセンや三点リーダーによる沈黙表現が、慣用的な省略表現の代表例と言えるでしょう。ただし慣用的に省略された表現も、きちんと言葉にしていないと言う意味では、曖昧表現と本質的には同じかもしれませんね。 以上。そもそも、なぜ《逃避した表現》がいけないのか。そして、どうして《逃避した表現》になってしまうのか。それは、書き手だけが何を書くのか把握していて、きちんと言葉に出来ていない時に起こります。 物語内の何をイメージすれば良いか。文章として、どう書けば良いか。言語化する作業が困難だと、書き手はどうしても、曖昧な表現に頼りがちになってしまいます。 しかし《逃避した文章》であるかどうかは、前後の文章の繋がりによって変わってきます。つまりは文脈[コンテクスト]次第で変化するのです。 ただ、《逃避した表現》が出現するポイントはどうやら、だいたい決まっているようです。 まず、以上のような文章を多用するとアウト。それから、作品の重要な部分で使っても、読んでいて違和感を覚えることでしょう。 ちなみに、作品の重要箇所とは何なのか。これは少女漫画でなら、キスシーン。時代劇でなら、殺陣と言うことになるでしょう。 ではファンタジーの物語で言う重要箇所とは、どこなのか。これは、具体的に考えると例えば、ラスボスたる魔王の登場。最後の力を振り絞っての凄まじい必殺技。魔法が起こす神秘の現象など。非現実的で超常の出来事が起こっている箇所ではないでしょうか。 そうした箇所では描写の言葉を見つけるのが難しいので、案外と《逃避した表現》になってしまうことが多いようです。 もちろんこれが、脇役視点の描写箇所であれば別に、さらりと終わっても構いません。
大事なのは、読者が作品のどこを読みたいか。その「読みどころ」を想定しながら作品を書くことで、読者の《読感》を微調整することなのですから。 ちなみに《逃避した表現》の多用がいけないのは、作品の重要な部分でも無神経に、他と同じような描写濃度になってしまうから。と言う理由も挙げられるでしょう。 では以降、いくつか実例を挙げながら、具体的に説明してゆきましょう。 |