「逃避した表現」に関する注意 その6 最後に 〜 更なる上達のため 〜 |
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今回この『「逃避した表現」に関する注意』の説明は、分かり難かったと思います。 と言うのも、どこに注意すれば良いのか。また、どうやって直せば良いのか。その判断の基準が行き着くところ、練習と経験、天性のセンス、各人の自由と。どうしても曖昧になっているからです。 本当ならば。文章書きの先輩か先生にでも、あなたの書いた文章を読んでもらうのが一番なのですが。でも誰しもに、そんな都合の良い人がいるわけがない。よって、どうしても独力で身に付けてもらうしかありません。 ただ、訓練を積んだ人間が集まれば、大半の者が「おかしい」と判断を下すことになる。感覚の中にしか存在しないかもしれないが、明らかに「なにか」が存在するのは確かです。 結局、今回の『「逃避した表現」に関する注意』はコンテクストの問題と言うことになるので。最終的にはどうしても、肌で憶えてもらうしかないのです。 もちろん、こんな些細で面倒臭いことを考えながら文章を書けるはずがない、と今回の説明を無視してもらうのは各人の自由でしょう。 ただし、普段から意識していないと、こんな面倒なことは身につかないのも確かな話。 文章が連続していない箇所や、イメージが断絶している箇所など。 ほんの僅かな差なのかも知れないけれど、こう言った、ちょっとした違和感を覚える繊細さと。そして、無駄だと判断すれば省略してしまえる大胆さ。 この両方を身に付けて欲しい。 もしも、あなたが文章書きとして、更なる「上」のステップを目指そうと言うのなら。 こうした細かい積み重ねにより、少しずつ少しずつ、文章の《精度》をアップさせる。この他に上達への近道は存在しない、と言うことを憶えておいた方が良いでしょう。 表現が面倒な箇所でこそ、きちんと描写してやる。もう一言を説明してやる。そのたった一言が、「上」のステップを目指す者たちにとっては、大きな差となります。 でなければ、「どこか、残念で惜しい作品」となるだけでしょう。 「文章が巧くなる」とは、潜在能力が覚醒するとか、根性を込めればどうにかなるのではとか。何か劇的なものではありません。 もっと地味で、そして着実な、面倒臭い作業を。普段から、ごく当たり前にこなせるようになる。多分それが「上達した」と言うことなのだと思うのです。 と言うわけで今回、とても些細な注意点を挙げさせてもらいました。こうした細部を意識して、みなさんも更なるレベルアップを目指してください。 「神は細部に宿る」です。 以上っ! |