視点 その19 客観的な一人称(2) |
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では《客観的な一人称》とは実際に、どのような効果を持つのか。どう使うのか。いくつかの使用例を挙げてみよう。 《例1》 例えば、カレシとのセックスの最中に、ふと童話を思い出したとしよう。もちろん本来ならば、そんな暇があるわけない。そこを、あえて《客観的な一人称》で描く。 《客観的な一人称》は当たり前だったモチーフに対して、ユーモラスな感覚や、異化効果を引き出す効果を持つ。すると真剣な時間であったカレシとのセックスに、奇妙さやユーモアが生まれてくる。 《例2》 自分で自分は可愛いと思っていた。だが、もっと可愛い子がクラスに現れ、自信が揺るぎ出す。そこで「わたしは可愛い」と自己言及してみる。 なぜ不正確なはずの自己言及を行ったのか。それは確認のため、自分に言い聞かせるためだ。ここでは焦点子である「わたし」すらも、描写のモチーフに過ぎなくなる。自分について他人事として言及しているわけだ。 《例3》 語る自分と語られる自分との分裂で生まれる、その距離は主人公の意外な冷静さを助長させてくれる。 例えば「わたし」が交通事故に巻き込まれたとする。仮に実況文体ならば、いま自分に何が起こっているのか。突然のことで、混乱することだろう。もしかして怪我や衝撃によって、現状把握すら不可能な状態になっているかもしれない。 そこで実況文体から、その箇所だけ回想文体にチェンジ。「わたしが交通事故に遭ったのだ」と書けば小説としてストーリーが続けられるだろう。 《例4》 客観的な一人称は、自分自身を他人として、第三者のように観察するような効果も得られる。 「わたしは悲しい」だと自分の主観。「わたしが悲しむ」だと、かなり自分を客観視。「自分が悲しんでいるようだ」だと自分で自分のことが分からない、一人称なのに自分を観察した他者のような視点になる。 以上、かなり特殊で使いどころの難しい技法だが、知っておいて損はないだろう。 |