視点 その28 ゴッドビューの客観性(2) |
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ゴッドビューは全てのモチーフに対して、客観視のみを行う、ということになっている。だが実際にそんなこと可能なのだろうかという疑問が残る。 というのも真に主観が存在しないのならば、「なにかを見る」ということも起こりえないからだ。 例えば「ポストが赤い」という文章があったとして。それがポストであると判断し、そのポストが赤いと判断するのは誰だろうかということになる。 もしかすると「それ」はポストではないのかもしれないし、その人の見える赤が他の人と同じとは限らない。 絶対的な客観などあり得ない。どこかで主観が入ってしまう。だから完全な無人称では「ポストは赤い」という文章すら書けなくなってしまう。 と同様に、完全な主観だけでも文章は書けない。というか読めなくなる。主観のみで書かれた文章があるとすれば、それは俺語とか俺文学と呼ぶべきものだ。自分の中だけで通用する言葉のみで文章を書いたって、他の誰にも通じるわけがない。 言葉とは、他人と思いを共有するためのツールなのだ。
ボクは一人称も三人称も根源は一緒だと先述した。 「語り」として考えると、一人称は「わたし」の直接話法なので、読者は焦点子を身近に感じられるようになる。 ならば三人称は間接話法ということになるだろう。自分で「ぼくは怒ったぞ」と伝えるのが一人称ならば。「ぼくは怒ったぞ」と他人が代弁して読者へ伝えるのが、三人称なのだ。 そして物語外視点が「作者の独白」つまり、作者の一人称とすれば。ゴッドビューとは「作者を代弁している」つまり、作者の三人称といえるだろう。 だから、その「代弁者」が持つ主観からはさすがに、ゴッドビューも逃げられない。仕方がないから主観の量を一定以下に抑え、できるだけ客観視することを心がけておく。というか客観を装う演技をしておく。無人称な、ゴッドビューのフリをする。 ゴッドビューとは、冷静で厳しいようでいて、実は割と妥協に溢れた文体なのだ。 …………ところで。 「ゴッドビュー」って……昔のヒーローものか、ロボットものアニメに出てくる必殺技みたいな響きですよね。いや関係ない話なんですが。 |