【ポストモダン/ぽすともだん】その1




 ポストモダンとは何なのか説明するのに、バブル崩壊はわかりやすい例だ。

 バブルが崩壊するまで、日本の経済は永遠に発展し続けるものだと、大半の日本人が信じていた。学歴社会も終身雇用も資本主義も、絶対だった。
 それがバブル経済が弾けて、大企業が倒産すると、経済の発展に浮かれきっていた日本人は嫌でも気付かされた。どのような大企業でも、永遠に続くとは限らない、と。
 絶対の価値など存在しないと言う、良く考えてみれば当たり前の、でも残酷な事実を、バブル経済の崩壊は動かぬ証拠として日本人の前に叩きつけた。

 以上のように、景気や雇用などが永遠に続くはずだと言う、バブル以前にみんなで信じていた価値観。この「みんな」が共通して持っている価値観を、「大きな物語」と言う。
 「ポストモダン」とはこの「大きな物語」は終焉して、もうみんなが同じ「大きな物語」を持つことは二度とない、とする考え方だ。そして歴史などの「大きな物語」が終焉した代わり、世界は、個人の恋や趣味などの「小さな物語」がそれぞれがバラバラのまま存在するだけになる、と「ポストモダン」と言う考え方は説いている。

 本当はこの説明は、学術的には全然正しくない。何しろ色々とややこしい思想なので、「あー、そう言う考え方もあるんだ」程度に憶えておいてくれれば良い。

 しかし国家や宗教や経済など。「みんなで一緒に信じる価値観」がいつの日かなくなると言うのは、考えてみれば当たり前の話だ。
 交通網の発達で人はどこへでも行けるようになった。人種の混血は更に進むはずだ。インターネットの登場で、情報は文化の区別なく発信されるようになった。地理や民族の差によって、何かを区別しようとするのは無駄な努力となる。今はまだSFの中の話だが、国境がなくなる日だって、いつかは来る。
 永遠に続くものなんて、ありはしない。

 しかし考えてみてほしい。「大きな物語」がなくなったらどうなるのか。
 「みんな一緒でいなければならない」と言うのは窮屈な話だ。だが「お前は職人の家に生まれたから、将来は職人になれ」と誰かに決めて貰える人生と言うものは、実は楽な人生なのかもしれない。
 逆に、誰も自分のことを決めてくれない。決めたくても、何の道しるべもないとしたら、どうするだろうか。
 全ての人間が些細な選択にでも、いちいち悩まなくてはならない。しかもその選択が失敗に終わったら、責任は全て自分ひとりが背負わなければならない。
 昔は、自分の無能も不幸も全ては、神と神の定めた運命のせいだった。しかしこれからは、自分に能力がないのも、不幸な境遇でいるのも、事業に失敗してしまうのも、全て自分だけの責任となる。誰にも頼れない。

 そんな重荷に、誰もが耐えられるわけではない。人はそこまで強くない。
 結果、何のために生きれば良いのか見失って自殺したり、ヤケになって無差別に人を殺してみたり、人は無軌道な行動に走ることになる。
 ならばかつての「大きい物語」に代わる、新しい価値観を見出さなければならないのだろうが、まだそんなもの見つかっていない。

 まだ今は過渡期なのだ。



→ ポストモダン その2



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