殺人論 その11

   人を殺させるモノ(1)




 もし、誰か人を殺したいと考えている人がいたとしよう。
 殺す理由は何だって良い。誰を殺そうとしているのかも関係ない。いっそのこと、自分自身を殺そうとしている、つまりは自殺者と言うことにしても良い。どうせやっていることの本質は同じだ。
 さて、あなたならその人を、どうやって止めるだろうか。

 「そんな赤の他人の事情なんて、自分には関係ない」と言った人。あなたは人間失格だ。
 これは、あなたなら他人をどうやって救うかと言う、「救い」に関する問いである。また同時に回答者自身が持つ、人と人との関わり方を問うものである。と言うことは、その人の人生の意義を問う質問でもある。

 現代日本に暮らす人たちならどう答えるだろうか。
 人を傷つけてはならない。人の命は何ものにも代えがたい。とでも答えるのだろうか。だがその答えは欺瞞に過ぎないことを、本当はみんな知っているはずだ。

 これがまだ大人であれば、長い間生きている内に社会とのしがらみもできているので、その程度の欺瞞に過ぎない言い訳でも、まぁ仕方がないかと納得しようとする。納得できる、のではない。無理矢理納得しようとする、のだ。
 だが子供たちに欺瞞は通用しない。社会とのしがらみも少ない。だから子供は、殺したいと思ったらその気持ちをストレートに表現してしまう。
 だから「悪いことをしてはならない」と言われても、その程度の説得力で子供たちは納得しない。そう言う大人は、いっぱい悪いことをしてるのに、どうして自分だけ「悪いことをしてはならないのか」と逆に、問い返されることになるだろう。

 そうなのだ。
 子供に「やってはいけないこと」を教えるのは、親と、親が属する社会の役目である。だと言うのに、現代の社会システムは、人のためではなく、システム自体の維持のために存在している。社会自体が人の命と尊厳をないがしろにしている。
 人の命は大切だと口では言っておきながら、実際にやっているのは、人の命が貨幣ではいくらになるかの計算ばかり。そのような姿を見せていながら、子供に「悪いことをしてはいけない」と説いても従うわけがない。

 だから現代の子供たちは混乱している。
 自分が見習うべき親は、一方で人の命は大切だと言っているのに、一方でエゴのために人を殺し続けている。果たして自分はどうすれば良いのか。わからないのだ。
 親に逆らっているわけではない。ある意味で、問題を起こす子供たちと言うのは、親に忠実だ。親の汚点を忠実に再現しているのだから。

 だから最近の日本で、もしくはアメリカで、残酷な殺人を犯すなど、少年層の起こす事件が問題になっているが、そんなこと大して重要ではない。実際、例えば日本では少年犯罪は増えているどころか、数十年の幅で見てみると減っている、と言う統計すらある。
 少年犯罪が起こるから問題なのではない。犯罪を犯した、動機を理解できないからこそ問題なのだ。

 でも本当は、理解できないはずがない。人間は太古の昔から基本的に変わっていない。
 少年犯罪がなぜ起こったのか。真に知るためには、親の世代の人間は子供たちと向き合わなくてはならない。親が子供と向き合う、と言うことは、親が自分自身と向き合うと言うことでもある。すると、否応でも自分の汚い部分を見てしまうことになる。
 それが嫌で、自分の汚い部分を見たくないから、理解しようとしないだけなのだ。仕方がないから適当に、心理分析でもして、ゲームが悪いとかインターネットが悪いとか、責任を転嫁する。

 だがそうやって都合の悪い部分を排除しようとしているうちは、誰も救われない。


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