殺人論 その5

   それでも人が人を殺す理由(1)




 人は本来、他の人を殺したくはないと思うものである。これは間違いない。
 しかし《殺人》は今でも世界のどこかで起こっている。もしかして人類史上で、人が人を殺さなかった日なんてないのではないか、と思えるくらいに、人は人を殺している。
 殺人は苦痛のはずだ。その苦痛を受けてでも、なぜ人は人を殺すのか。
 理由はいくつか考えられる。

 考えられる理由その1。人を殺しても何とも思わないサイコパスもしくは、人を殺すのが楽しくて堪らない快楽殺人者だから。
 もう、これは論外だ。
 だって相手は人ではないのだから。人が人を殺すから《殺人》なのだ。人が、人ではない「何か」のせいで死んだとしても、それはもう「事故」としか言いようがない。人の血の味を覚えた空腹のライオンに、人道を説いても意味がない。さっさと逃げるか、武装して大勢で取り囲み、さっさと排除してしまうしかない。
 だが現実に殺人狂なんて滅多にいるものではない。ひとつの思考実験、考えうる可能性と言うだけだ。
 そんなモノが存在することを想定しながら、普段から生活はできない。言ってみれば、エイリアンがいつ地球侵略にやってくるのか、心配するようなものだ。杞憂と言うものである。
 絶対にありえないとは断言しないが、それなら交通事故に遭わないように気をつけていた方が、よほど役に立つ。
 よってサイコパスの存在は前提として考えない方が良い。

 では理由その2だ。
 ボクの論理では、人が誰か他人を殺さないのは、自分が大切だからと言う大前提が必要となる。と言うことは、自分が大切でなくなった人間は、他人を殺せるようになる、と言うことになる。
 でも、自分が大切でなくなる、なんてあり得るのだろうか。実はこれが珍しくない。

 人は、自分が大切だから他人も殺さない。その大切な「自分」とは、周囲の人々との関係の中で築き上げられている。では、もしも誰からも愛されず、存在を否定され続けて生きてきたとしたら、どうなるだろうか。
 自己の存在価値とは、他人に認められ評価されることで、はじめて成立する。誰からも愛されない、もしくは愛された実感を持ったことがない人間は、やがて自分で自分の存在価値すら見失って行く。自分で自分が愛せなくなる。自己嫌悪しかできなくなる。そのうち、自己嫌悪しかできないのは、自分を認めてくれようとしない、周囲の人間と社会のせいだと逆恨みするようになる。最後には、自分自身を憎むように、世界の全てを憎むようになる。
 人間こうなってしまえば、自分の行く末も、他人の迷惑もどうでも良くなってしまう。いとも簡単に自殺なり、殺人なり、ヤケを起こすことができる。人は人の間にいるからこそ、人でいられるのだ。自分を人間扱いしてくれない者を、人は人とは思わない。
 自分を殺すのと、他人を殺すのとは、本質として同じだ。

 ところで以上ふたつの例は、許されない殺人だ。しかし世の中には、殺すことを許される場合も存在する。


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