殺人論 その6

   それでも人が人を殺す理由(2)




 本来、殺人は許されない行為である。しかし時と場合によって、殺人は許されている。なぜ人は人を殺すのかと言う、これが考えられる理由その3だ。すなわち、殺人を許されているから人を殺すのだ。
 では、殺人が許されている場合とはどのようなものだろうか。
 まず殺人が許される場合として考えられる状況に、そのようなものがあるか。これは簡単だ。正当防衛だ。

 殺人は相手だけでなく当人にも苦痛であり、極力避けなければならない。しかし殺人が苦痛でなくなった、悪意を持った人間は確かに存在する。これは悲しいが事実だ。そして悪意を持った人間がいるからには、いつ自分たちにその悪意が襲ってくるとは限らない。

 ボクは、人が人を殺さないのは自分が大切だから、と論じた。自己防衛は、殺人の禁止の大前提だ。
 ではその守るべき自分自身と、自分にとって大切な人の身に危機が迫ったらば、どうするか。見も知らぬ悪意を持った赤の他人と、自分や身近な人の命。どちらを優先するか。
 そんなもの決まっている。危険は排除すべきだ。殺人は苦痛だろう。しかし、多少の苦痛を覚悟してでも、自分たちの身は守らなければならない瞬間がある。
 「人を殺しちゃいけないよ」とかモラルを説いている間に、自分が命を落としていては、元も子もない。

 ところでさっきボクは人が人を殺す理由として、人間ヤケになると人を殺すものだ、と言った。
 実はこのヤケになるのは、もともと自己の存在意義を守るための、いわば自己防衛のような行為でもある。つまり、自分の精神はこのままでは殺されてしまう。ならば先に、自分を殺そうとする他人を殺しことで、自分の身を守ろう、と言うのだ。
 ただヤケを起こそうと言うような人間は、その頃には既に正常な判断力も失っているだろう。自分を守るためにヤケで人を殺したと言っても、許されるものではない。

 しかし「許される殺人」はこれだけではない。
 殺人の中には状況によって、違法にもならなければ、罪を問われることもない。それどころか、本来なら殺人行為を禁止すべき国家が、公認し奨励すらされる殺人がある。
 それが戦争だ。戦争において人は人を殺すことを、奨励される。戦争は国家公認の殺人である。戦争における殺人は、《法》の主人である国が許しているから犯罪ではない、と言うことになっている。

 人は人を殺そうとしないものだが、ヤケになった人間には、そんな道理は通用しない。ここまでボクは説明した。
 ではヤケになった人間を押しとどめるのものは何かと言うと、現実的な法律と処罰である。鬱憤を解消できると言うメリットよりも、死刑などの処罰を受けると言うデメリットの方が大きいから、人を殺さない。《法》の抑止力は案外と大きい。
 しかし戦争は、本来殺人を抑止すべき存在である、法によって奨励される殺人である。
 つまり殺人は違法としてと、合法なるものとして行われる。殺人と言う、最悪の人間性の破壊は、法のもっとも低いところと、もっとも高いところに位置している。

 これではいくら「人を殺してはならない」と《道徳》を叫んだところで、説得力が出ない。
 どうして自分個人のために人を殺したら罰せられるのに、国のために人を殺したら褒められるのか。
 どうして、人を殺してはいけないと言っている張本人が、同じ口で、人を殺せと言うのか。

 この矛盾とは一体どこから来るのだろうか。
 人と人との《絆》を保つために作られたのが《法》だとするならば、殺人はその《絆》の破壊である。ゆえに《殺人》は《不法》である……はずだ。
 ならばなぜ《合法》なる殺人が存在するのか。いかなる理由であれ、《法》が殺人を奨励するなど、あってはならないはずだ。


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