殺人論 その7

   《合法》なる殺人(1)




 ではなぜ戦争による殺人は法によって許されるのか。そのことを知るためにも、まずは戦争とは何かを理解する必要がある。

 クラウゼヴィッツの『戦争論』によれば、「戦争とは、相手にわが意思を強要するために行う力の行使」であり、政治手段のひとつ「他の手段をもってする政策の継続に過ぎない」と言う。
 つまり戦争の第一目的は国益である。この原則は、太古の昔から変わらない。また逆に、国益のためでなければ戦争は起こり得ない、と言い換えることもできる。

 そんなことはない、と言う人もいるだろう。
 確かに前線で戦う兵士は、愛国心や正義を抱いて死んで行く。だが兵士にイデオロギーが必要なのは、そのような信念でも持っていないと、とてもじゃないが命を懸けて戦えないからだ。国益なんて下らないもののために、進んで死ぬ人間はいない。
 だからイデオロギーは言い訳に過ぎない。実際、正義などの大義名分は、情報戦において敵国の士気を削ぐために有効である。そして、本格的な情報戦は近代以降のものである。つまり正義とは、情報戦において敵国の士気を削ぐための武器なのだ。本来、正義と戦争は関係ない。
 よって戦争とは、国と言う社会システムが利益追求のために起こすものであり、それ以外の目的で行われるものではない。

 ならば正当防衛としての戦争ならばどうか。一方的に敵国に攻められたから、もしくは攻撃されそうだから戦争しなければならない、と言う理由であれば戦争にも「正しさ」があるとは言えないだろうか。
 答えは、やはり国益の追求ではない戦争などない、と言うことになる。
 『戦争論』によれば、前後の交渉までを含めて戦争だと言っている。最初に戦勝目標を設定し、達成させ、停戦協定を結ぶ。ここまでが戦争である。敵の虐殺と殲滅が目的ではない。戦争とは一種の交渉手段に過ぎない。

 だから、いきなり敵国が攻めてくるから戦争が起こるのではない。戦争に至るまでの政治的取引がある。その取引の途中で、戦争により相手国の勢力を削ぐことで、有利に駆け引きを行おうと言う結論が出るから、戦争をするのである。
 ただ自国の兵士には正義を信じて死んでもらわなくてはならないので、開戦のために何らかの大義名分を用意する必要がある。例えば、侵略に屈してはならないとか、民族の開放のためだとか。イデオロギーなんて、国家の都合により交換可能なものである。大義名分はなんだって良い。
 だからどちらが先制攻撃したかなんて、あまり重要ではない。奇襲は、戦争の中のちょっとした戦術、ひとつの戦い方に過ぎない。一回の戦闘では、戦争の趨勢は決まらない。
 以上の理由により、戦争における自己防衛は成立しない。戦争が起こるのは、互いに戦争することを了承済みになってからだ。


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