殺人論 その9

   《合法》なる殺人(3)




 人が人である限り、本当は誰も人を殺したくなんかないはずだ。

 他人を殺すと言うことは、自分を殺すのと同義である。
 実際、戦場で誰かを殺した、その同じ手で愛する家族の手を抱けるだろうか。老人を殺したのと同じ手で、親を労ることができるだろうか。敵兵を殺したのと同じ手で、友の肩を抱けるだろうか。敵国民を皆殺しにしたその血まみれの手で、子を抱けるだろうか。

 いつかは割り切れるようになるかもしれない。敵国の人間と、自分の家族とは別だと。だが同時に、敵兵も家族も同じように、命を軽く見てしまう日も必ずやってくる。そうなった人間は、もはや人と人との間で生きて行くことはできない。誰とも関係しないよう、孤独の中で生きなければならない。そんな苦痛に耐えられる人間はいない。
 ならば自分が殺した人間と向き合い、一生後悔し続けて生きるのか。それもひとりの人間には耐えられない苦痛である。
 どちらにせよ、《殺人》はひとりの人間には分不相応な責め苦と化す。全ての人が悟りを開けるほど強いわけではない。

 そしていつか必ず、自分の弱さに負ける時がくる。だが自分の弱さに負けるほど、許されざる罪はない。
 現実から逃避するか。責任転嫁して他人を傷つけても平気になってしまうか。誰かに八つ当たりするか。手っとり早く罪悪感を満足させるために、自傷行為や自殺に走るか。
 どれにせよ許されるものではない。
 だから人は人を殺してはならないのだ。

 それなのに国家は戦争における殺人を奨励する。実際に戦場で戦う個人は、殺人に耐えられないが、国家は個人に兵士となってもらい、できるだけ多くの人間を殺してもらわなければならない。
 だからまず、大義名分を与えることで罪悪感を麻痺させたり、相手は悪なので殺しても構わないと感情移入の余地をなくしたりする。
 それから、出来るだけ殺した実感が薄い殺し方が発明される。人を殺したと、できれば思いたくないからだ。
 素手より剣。剣より弓。弓より銃。銃よりミサイル。敵の姿は見えなくなる。
 実際にやっていることは昔から同じ。個人と個人の無意味な殺し合いに過ぎないのだが。

 ただ敵の姿が見えなくなるのは兵士だけではない。戦争を指示する国家のトップに立つ人間たちにも、人を殺していると言う実感はなくなる。たぶんそんな人間は、自分が人を殺しているとは思っていないのだろう。いや、思いたくないのだろう。
 指揮官はただでさえ人を殺していると言う実感が薄い。それが現代のように敵の姿が見えないようになると、戦争はいかに駒を巧く動かすかのゲームと化す。戦争のゲーム化により、人命はますます安価なものとなる。そして戦争は国益のために起こると言う原則は変わらない。
 こうなると、人がいくら死んだら、いくら儲かるかと言う基準でしか、戦争が見れなくなる。

 貧困ゆえの戦争は起こっても仕方がない。だがそれなら豊かな国も戦争をするのか。これが理由だ。
 人の欲望には制限がない。戦争は経済的に有効である。だから欲ボケしていつまでも利益を追求している限り、戦争はエスカレートする。だから世界から戦争はなくならないのだ。


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