物語の速度・規模 その7

         フレームの問題




 人の視覚には「視野」という範囲がある。視野の外にあるものまで、人は知覚できない。シカ以外にあるものを注目するには、振り向き直さないといけない。
 同じように絵画や映画にも、「枠」という表現できる限界がある。
 こうした、知覚できる限界・表現できる限界を、《枠[フレーム]》という。表現は必ずフレームの制限を受ける。

 もちろん文章にもフレームはある。
 たいていの作品には、求められる上限文字数があるし。書籍ならば、一冊の間に何らかの区切りをつけなければならない。ネットならば表現形式は個人の自由なので、文章量の上限はあって、なきが如きになる。
 だが書く方にも、読む方にも、書く時間や読む時間といった物理的限界が存在するし。そもそも一作という大きな全体の括りだけではなく。行や段落といった小さな部分も、区切ることでスケールと考えることができる。
 なので、やはり文章もスケールの制限から逃れらない。

 ではフレームの大小で表現の仕方はどう変わってくるのか。同じサイズの写真を思い浮かべてくれれば、イメージしやすいかもしれない。
 城も小屋も、写真に写れば同じ大きさになる。だがフレームの大きさが同じ写真では、城の細部はわからない。対して小屋ならば細部までわかるだろう。
 ならば写真の大きさ=文章量と考えてみよう。同じ文章量で、大きなスケールのモチーフは詳しく描けないし。だがモチーフのスケールが小さくなると、詳しく描き過ぎてしまうことになる。

 ひとつのフレームに詰め込んだ描写の密度差とは、画像データにおける解像度のようなものだ。密度が高すぎると、いちいち拡大しなければ細部まで分からなくなるので、描き込むだけ無駄になってしまうし。密度が粗ければ、サムネ表示のように大まかな形状しか分からなくなる。
 どのみちいえることは、表現されていない内容を読者は知ることはできない。だから表現者は情報の取捨選択を行わなくてはならない。これが「表現のスケール」だ。

 と共に、写真に写っているモチーフの大きさ=スケールにより、観察している人。つまりは視点の持ち主(焦点子)が、モチーフのどこにいるかもわかる。
 カメラで城を写したのなら、焦点子は遠くから景色を広くとらえていることになる。対して小屋をカメラで撮影したのなら、焦点子とモチーフの距離は近いということになる。
 焦点子によって知覚の仕方が変わる。これが「知覚のスケール」だ。

 焦点子によって、知覚のフレームがどう変わるか。もう少し説明してみよう。例えば、その物語に《ラスボス》が登場したとする。
 主人公が幼稚園児だった場合。子供の狭い視野[フレーム]で認識できるのは、せいぜいが家族と幼稚園くらいのものだ。すると子供が焦点子の物語でのラスボスは、せいぜいが砂場で遊ばせてくれない、いじめっ子という程度になる。
 これが世界の平和を守るために戦う、勇者の物語だとしたら。ラスボスは大陸を戦乱に陥れようとする魔王くらいでないと釣り合わない。

 というように、モチーフや焦点子のスケールによって、フレームが変わってくる。フレームが決まれば総文章量が分かる。
 フレームが決まることで、どこまで描いて、どこから描かないか。適当な描写密度が分かってくる。
 総文章量と描写密度が分かれば、最適な文章の書き方も見つかってくるはずだ。


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