描写 その3

   形容詞の多用(1)




 わたくしごとになるが、ボクが文章修行をはじめて最初に教えられたのは「形容詞に頼るな」と言うことだった。
 小説を書いたら、全部の形容詞に赤ペンでラインを引く。線を引いたら、本当にその形容詞が必要だったか、ひとつずつ検証する。不要だと判断した形容詞の部分は、別の表現方法がないか考える。
 別に、全ての人に勧めるつもりはない。完全に有効な手段であるとも言い難い。
 ただ実際に、初心者には形容詞を多用する人間が多かったと言う記憶がある。最低でも、小説作法の初歩すら知らなかった頃のボクには有効だった。

 例えば「美しい景色だった」と言う文章があったとしよう。
 これだけで文章を書いた人の感動は、あなたに伝わるだろうか。伝わるわけがない。
 浦島太郎の童謡に「絵にも描けない美しさ」と言う一節がある。もしかして、その「美しい景色」を見た書き手は圧倒されて、「美しい」以外の言葉を持てなかったのかもしれない。
 だが「美しい」と百万回繰り返したところで、語り手のイメージする「美しさ」が読者に伝わることはない。繰り返し言うだけなら、駄々をこねる幼児でもできる。

 確かに、言葉にできない、表現できないものはある。
 しかし「言葉にできない」ものを文章化することこそが、描写の第一目的である。
 小説書きにとっては「言葉にできない」ものがあってはならない。せいぜい「言葉にしにくい」程度でなくてはならない。
 では、どうすれば語り手のイメージを読者に伝えることができるのか。

 イメージを言葉にできないのは、当てはまる言葉が存在しないからだ。
 普段から使える語彙数と言うものは、案外と少ない。対して、人の感情は複雑怪奇で、とてもではないがカテゴリ化できるものではない。
 よってこの例文だけを読んでも、読者は文章に共感できない。「美しい景色だった」と言う形容詞の表現だけでは、どのような景色で、どう美しいと感じたのか、まで読者はわからない。
 それを「美しい」と言ってしまった時点で、イメージは類型化し、陳腐になる。

 実は逆なのだ。
 形容詞だけの文章では、読者が何もイメージできないから、形容詞を使わないのではない。
 「孤独」や「絶望」や「愛」や「希望」や「感動」など。あえて、これらの語を使わずに表現するのが文学と言うものであり、描写と言うものなのだ。


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