描写 その4

   形容詞の多用(2)




 文章には語り手と読み手がいる。そして、語り手の言いたいことが、読み手に必ずしも伝わるとは限らない。
 語り手のイメージを言葉だけで、100パーセント説明することはできない。思った通りを書いたとしても、充分に伝わるとは限らない。うまくいって80パーセントが良いところだろう。だが逆に伝え方によっては、120パーセントなら可能にもなる。
 そのための技術であり、演出であり、描写である。大切なのは語り手自身が、読者のイメージを操作しながら書く、と言うことだ。

 さっきボクが教えた、形容詞の部分にラインを引く、と言う方法を思い出してほしい。本当にその形容詞が必要かどうか。不要なら、別の表現方法がないか考える。
 大事なのは、形容詞を使ったら立ち止まってみる。読者に実例が見えるかどうか、考えることだ。
 その景色が「どのように」美しいのか。「どんな時に」「誰が」「どんな気持ちで」「どんな場所で」「何を」見て美しいと感じたのか。それが読者に伝わらなければならない。

 《説明》なら誰でもできる。だが小説描写で求められるのは、「何があるか」と言う《説明》だけではない。
 小説の文章は、読んでいて感情が生まれなければならない。「どのような、何があるか」が、小説の文章には求められる。
 「リンゴがある」と書いただけでは、どのようなリンゴがあるのか、までは理解できない。しかも同じものを見ても、その時の心境によって受け取り方は変わってくる
 同じリンゴを見ても、美味しそうと感じる人もいれば、不味そうだと感じる人もいる。中には美しいと感じる人や、金額に換算してしまう人もいるだろう。
 まず語り手は読者に与えるイメージを操作して、統一しなければならない。

 形容詞とは「意見」だ。推論や断定を含む文章は正確ではないし、読んで強さを感じさせない。
 だから形容詞よりともかく《事実》を書く。具体的な《モノ》でもって描く。
 「美しい景色だ」と言うような文章は、《事実》を表現していない。ある景色が全ての人間にとって美しく感じられるとは限らない。
 だが「山がある」とか「夕日が見える」のは《事実》だ。そうやって実際にある《モノ》を並べることで、読者に《モノ》の向こうに透けて感じられる印象に気付かせる。
 「美しい」「悲しい」と自分の心の内を形容詞で述べようと思っても決して伝わるものではない。悲しんでいる人の姿、美しい山の姿を描き「写す」ことによって、はじめて悲しみも美しさも伝わるのだ。

 登場人物や事象の持つ抽象的な特徴を、その抽象を端的に示す言葉で現わして終わりにするのではない。そもそも、その抽象を導くに至った具体的な内容の実例を示す。
 これが《描写》である。

 だからと言ってボクは、形容詞を使うな、と言うつもりはない。
 どうでも良いものを描く時なら、形容詞でさっと表現した方が簡単だろう。泣いている通行人Aと、主人公の涙とでは、情報としての重要さが違う。
 とにかく、言葉に頼りすぎるな。《そのもの》を《そのまま》書かない。描いてみせろ、と言うことである。


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