はじめに、その1

 当ホームページ使用上の注意
 



 はじめに注意しておかねばならない。と言うのは、ここで紹介するのは、小説を書くための技術についてのみだと言うことである。つまり、当ホームページは「小説を書くのがうまくなる」ためのレクチャーを行う場であって、「面白い小説が書けるようになる」ためのものではない、ということだ。

 そう。「うまく書けた小説」が必ずしも「面白い小説」であるとは限らない。

 もちろん、現在名作と呼ばれている小説は、一定水準以上の技術をクリアしているはずだ。それは、書いた人が優れた技術を習得していたからだ。しかしそのような、優れた技術を有した作家の書いた作品が、全て名作になりうるかと言うと、答えは否である。最高の技術を持つ作家であっても、技術だけで名作と呼ばれる作品をものにすることはできない。技術以外の条件を問われることになる。

 逆に、ごくまれではあるが、技術なんて知らなくても懸命に書かれた手紙が、多くの人の心を打つこともある。
 結局、小説の面白さにとって最終的に問われるのは、陳腐かもしれないが、あの古典的な名言「文は人なり」の通り、書き手の「人となり」なのである。

 では努力や勉強が無駄なのかと言うと、そうではない。

 と、ここで勘違いする前に説明しておかなければならないのは、《技術》と言うものの特性について、である。
 すなわち、《技術》とは道具に過ぎない。そして道具としての特性とはつまり、使うも使わないも使い手の自由である、と言うことだ。

 紙を切るのにはハサミの方が便利だと言うのは、一般論にすぎない。ナイフの方が手に慣れていると言う人もいるだろうし、どのように紙を切るかによっては、ナイフを使った方が便利な場合もあるだろう。もしかすると科学の進歩によって、素晴らしく便利な道具が生まれてくるかもしれない。その結果、ハサミやナイフが世界からなくなるかもしれないし、不便でも使い続ける人がいるかもしれない。

 その意味で技術論とは絶対の真理ではない。数多くの側面のひとつに過ぎない。汎用性も普遍性もない。間違ってはいないが正しくもない。ただ人によって、便利に感じられる人と不便に感じられる人がいて、勝手に解釈したり勝手に活用したり、重宝することもあれば役に立たないからと捨てたりする。技術論とはそう言う性質のものなのだ。

 よってここに書かれている内容について、ボクは反論は受け付けられない。またボクの論を利用して何かしようとしても、ボクは助けようとも思わない。だってボクは「正しいこと」を言っていないからだ。

 例えば、ここで紹介されるボクの技術論を利用して、あなたが何かひとつ書評でも書くとしよう。実際それは簡単な作業だ。あの技術を使っていないからこの作品は駄目だとか、その技術を使っているからどの作品が素晴らしいとか、《それっぽい基準点》がひとつあれば、評論は割と簡単な作業となる。

 でも、もしあなたがそうやって評論活動をしていて、誰かに反論されたとする。その時あなたはどうするのか。ボクの名前と、ボクの言葉の引用でもするのだろうか。ボクはボク自身の言葉の「正しさ」にすら責任を持てないと言うのに、なんで他人の「正しさ」にまで責任を持てると言うのか。「正しさ」なんてしょせんは、自分の中にしか存在しないものなのだ。

 もちろん世の中には誠実な評論家だってたくさんいる。彼らはさっきボクが言った、評論に必要な《それっぽい基準点》を探し出すために、それこそ日夜、真理の探索と勉学に励んでいる。そんな人間であれば、自分の「正しさ」に責任を持つこともできるだろう。

 対して、ボクは一介の《文章書き》に過ぎない。そのしがない《文章書き》が、小説を書くのに便利な知識を勝手に集めて、勝手に解釈した結果が、このホームページにおけるレクチャーなのだ。アカデミズムと言うか、知識としての正確さに関して、このホームページで使われている専門知識の使われかたほど、いい加減なものはない。

 第一、ボクは《文章書き》であって、その《誠実な評論家》ではないので、正確な知識に興味はない。自分の「正しさ」に責任は持てないし、ましてや他人の尻を拭く気も一切ない。
 技術は道具に過ぎず、そして道具を何のために使うかは、使い手の自由だ。紙切りハサミを誰かに突き刺したら人が死んだと言っても、ボクは、そりゃ刺した人の責任だろ、としか言えない。

 (ま、つまりは無断引用お断り、ってことです。)

 ここまで来ればわかるだろうか。
 《技術》を習得する、と言うのはその《道具》を手に入れたと言うだけの話に過ぎない。「面白い小説を書く」と言うのは、手持ちの《道具》でどれだけ良いものを作れるか、と言うことになのだ。

 実際のところ、そこそこ「うまく」書けたとしても、それはただ読みやすい文章が書けるようになった、と言うだけの話に過ぎない。読み手の心に残る文章が書けるかどうかは別問題だ。だからボクは改めて声を大にして言っておかねばならない。小説を書くのがうまくなっても、面白い小説が書けるようになるとは限らない、のだと。

 それじゃあ、なぜそんなムダな知識を憶えなきゃならないのか。更に言うと、お前はなんでそんな無駄な知識をわざわざ教えようとするんだ、と言う疑問が生じるかもしれない。

 《技術》を教える、と言うのはただ単に、あなたが胸の内に抱いているが、うまく言葉にできない思いを、伝えやすくする手助けをしようと言うだけにすぎない。結果、あなたは幸福になれるかもしれない。逆に、もしかして不幸になるかもしれない。

 誰かに対して言葉を投げかけると言うのは、誰か他人と、自分と他人を含む世界を変えようとする行為だ。変えられて喜ぶ人もいれば、変えられて迷惑する人もいる。そして世界に変わってほしくないと言う人は、あなたが誰かに思いを伝えようとする行為を迷惑だと思うだろう。誰もあなたの言葉なんて求めていないかもしれない。

 どちらにせよ確実に言えるのは、あなただけが持つ固有の《情報》が他人に伝わりやすくなることで、ほんの少し世界が変わると言うことだ。

 それを、幸福とか不幸と言った言葉で語ることはできない。ただきっと、価値ある行為のはずだ。価値ある行為と言うのはつまり、面白いと言うことでもある。

 ボクは結局、面白がっているのだ。そう。これはきっと、世界を相手にした《遊び》なのだ。この《遊び》が面白いことだけは、ボクは自信を持って保証できる。できればあなたもこの、最高に楽しい《遊び》に参加して欲してくれると嬉しい。














 最後にもうひとつだけ。反論は受け付けないと言っても、一種類だけ、受け付ける反論がある。
 もしも、あなたがここに紹介されている以上に便利な技術を持っていたとしたら、それは素晴らしいことだ。良かったらボクにもコッソリ教えてほしい。


Next →

Back To Menu