視点 その14

   心理描写における主客(1)




 こと心理描写になると、途端に視点の問題は難しくなる。心理描写は全て主観だ。他人の心の中こそ、誰も中身を見透かせない。例えば扉の向こう側が透けて見えないように、後ろ手に隠した物が見えないように。他人の心中は、視線を隠す《ブラインド》として機能して観察できないからだ。
 ゆえに《立場としての視点》をどこに置くか。焦点子は自分なのか他人なのか。間違えれば、ドアの向こう側が透けて見えるような文章になってしまい。あっという間に視点が狂ってしまう。

 心理描写とは、登場人物の内面に関する記述である。他人からは、相手の心の中は見えない。事実として観測しづらい。よってどうしても心理描写は主観描写となりやすい。そもそも心理状態とは主観に属するものである。
 よって先述した《自己矛盾》の理論を厳密に守ると、全ての主観描写が許されなくなってしまう。
 これでは小説が書けなくなる。

 小説における心理描写はどこまで許されるのか。つまりは、あえての自己言及を行っても、どこまでなら読者は許してくれるのか。ボーダーを明確にする必要がある。なので幾つかの例を提示してみよう。

 まずは《登場人物内視点》つまりは一人称で行われる心理描写の場合。
 一人称での、焦点子自身の心理描写は許されている。「自分はこう思った」と、自分が認識する。これは事実だ。観測者は自分しかいない。自分のことは自分でわかっているのだから、説得力は必要ない。
 許されないのは《自己言及》。つまりは「自己の客観視」をするための主観描写だ。だから一人称では自己言及になってしまうので、自己紹介が難しいといわれている。

 そして一人称でも、他人の心理を描くのは許されない。これは単純に考えて、他人の気持ちはわからない、ブラインドだから、と言うことになる。悪い例を挙げるなら

アイツは怒った。

と言う文章には正確さはない、ということになる。焦点子である登場人物が、誰かの様子を見て、勝手に代弁している。もしくは類推・判断し、個人的な意見を述べているに過ぎないからだ。
 そう。
 他人の心理は、行動や様子と言った表層から想像するしかない。他人の心理は「このような様子がある、だからきっとアイツはこのような心理状態に違いない」と自分が勝手に想像しているだけだ。
 だからこの例文も、一人称としてもう少し正確に書くならばこうでもした方が良いだろう。例えば

 アイツが額に青筋を立てているのに、俺は気がついた。
 何かに耐えているのだろうか。
 ヤバイ。どうやら怒っているようだ。

と言うように。

 だがこれでも、ある程度の意見と独断と判断が必要となってくる。つまり他人の心理を描写するためには、必ず多少なりともどこかに、焦点子の主観が介在せざるをえない。
 ただこの問題も、一人称ならば焦点子が「わたし」が変わることはないのだから、読者が混乱することはない。焦点子の主観が介在されたとしても、読者は「ああ、主人公はアイツをそう思っているのだなあ」と勝手に納得してくれるからだ。

 だが、これが三人称すなわち《登場人物外視点》ならば、どうなるだろう。どうしても焦点子の主観が入り込むとするならば。どこまでの意見の量、語り手の独断の介在が許されるのか、を考えなければならない。


← Return

Next →


Back to Menu