視点 その15 心理描写における主客(2) |
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他人の気持ちはわからない。だから《登場人物内視点》でも、他人の気持ちはわからない。そうなると、今度は《登場人物外視点》つまり三人称では、あらゆる登場人物の内部、つまりは心理を知り得ないことになってしまう。 確かに、厳密な言い方をするならば、《登場人物外視点》での主観描写は全て許されない、と言えるだろう。仕方なく、他人の心理描写を行いたいのなら、主観を排した客観描写となる。だから
と言う文章は正しくないと言うことになってしまう。これを手直しするとしたら、
の方がより客観的で、正確になるだろう。 しかしこの例でも、まだある程度の独断が含まれた、焦点子の《主観的な意見》であると言えなくもない。より客観的な描写にするとしたら、
くらいとなる。しかし「……らしい」と思うのも、誰かの主観には違いない。 というように、主観の有無なんて机上の空論を重ねても、キリがない。堂々巡りになってしまう。 現実問題として、全くの主観が介在しない文章と言うものはありえない。逆に主観を排除することによるデメリットの方が大きくなる。 デメリットにも色々ある。例えば、文章が他人事となってしまい、読者が感情移入できなくなってしまう。物語へのリアリティを感じられなくなってしまう。そもそも書き手としても、提示できる情報が限定されすぎて、小説を書きにくい。 理想としては大層だが、読者も作者も面倒なこと、この上ない。 ゆえに語り手は選択しなければならない。自己言及による説得力のマイナスを覚悟で、主観描写を行うか。印象は薄くなるが客観描写を行うことで、文章としての論理的整合性を採るか。 というわけで。 語り手はある一定のレベルまでしか、主観を表出しないと決める。その上で心理描写が行われれば、読者にも混乱は生じない。乱暴な言い方ではあるが、その方が読者も「そんなもの」だと納得した上で作品を読んでくれる。対して主観の表出レベルが、一部分だけ著しく違っている場合、視点が狂っていると見做されることになる。 現実的なやり方としては一般に、このような方法が採られることになる。 例えば《登場人物外不特定視点》もしくは《物語外視点》の場合。これらを《神の視点》と言うこともある。これらの視点になると、全ての人物の心情・行動がわかっても良いと言うことになる。 他方では、いやそれはおかしい。《登場人物外視点》で、しかも登場人物の主観からは、かなり離れる《神の視点》ならば、誰ひとりでも登場人物の内なる心情がわかってはならない、と言う意見もあるだろう。 だが神の視点をとりあえず選べば、あまり視点に悩む心配もない。 それが《登場人物外特定視点》になると、主人公の背後について、その人物の気持ちだけがわかると言うことする。他の登場人物に関してはブラインドであるとして、心理描写は行わない。すると読者もそのようなルールさえわかっていれば、読んでいて混乱は生じなくなる。 ……と以上が、従来の視点と人称に関する考え方だ。 という、これも結局は主客の表出をどのくらいにの量にするかと言う、度合いに過ぎない。 神様は全知全能の存在だから、《神の視点》ではどのような描写を行うことも許される、と言うのも間違いである。《神の視点》と言う呼称は、比喩に過ぎない。 かといって全ての登場人物に対して、主観描写を行っていれば、たちまち文章は強さを失ってしまうだろう。 あらゆる視点の位置は、主客の差から生じている。ただそれだけの違いしかありえない。 |