視点 その18

   客観的な一人称(1)




 一人称の基本はもちろん、登場人物との一体感だ。
 視点が主人公から動かないゆえに、読んでいて「いま誰の視点かな?」と悩むこともない。だから簡単に読める。
 また一人称は主観が前面に押し出されることになる。だから描き出されるものは、単なる事実ではありえない。主人公にとっての事実でも、ひょっとして錯覚または勘違いである場合も多い。
 例えば、子供の一人称だったとしよう。ある日、子供は砂浜で宝石を拾ったとする。だが宝石だと思い込んでいるのはその子供だけで、実際は波で洗われて丸くなったガラス玉に過ぎなかった。でも子供の目にはガラス玉も、世界一の宝石に見えることだってあるのだ。

 主人公の視点から周囲を追いかけ、主人公自身の感性を間接的に描けるというのも一人称の魅力だ。
 例えば美女を前にした男の一人称の場合。やたらとオッパイ描写文が増えたとする。一人称で描写されるものは、主人公が実際に見たものとなる。すると読者は「ああ。主人公の男はオッパイばかり見ているのだな。コイツはオッパイ好きなスケベなのだな」と分かるわけだ。
 以上が、普通の一人称における効果ということになる。

 だが一人称といっても実は、いろんな種類の文体がある。例えば回想、日記、手紙文、そしてリアルタイムで目の前で起こっていることを伝える実況。様々な形式が存在している。これら全て主語が「わたし」になるから、一人称には間違いない。
 すると一人称といっても、実況と回想とでは文体も、主観の出し方も変わってくる。《客観的な一人称》もその、さまざまな一人称のひとつだと思って構わない。

 しかし《客観的な一人称》において、焦点子は《登場人物内》から《登場人物外》へは向かってないらしい。つまり、三人称になっているわけでもないらしい。ならば焦点子は《登場人物内》からどこへ移動していると言うのだろうか。
 実は、同じ《登場人物内視点》でも、《物語内》から、《物語外》へ移行している。つまりは作者自身による独白、作者の一人称だ。

 一人称とは、作者が自分について語っているのではない。作者がが「他の自分」になったつもりで語っているのが一人称だ。
 こうして、物語内で一人称の焦点子を演じる「わたし」のことを《語られる自分》。物語の外にいる作者自身を《語る自分》という。

 語る自分と語られる自分。物語外と物語内。両者がイコールであるかのように演技している間は、読者も迷うことはない。
 しかし作者自身が《語られる自分》のフリをやめたり。物語内の主人公が「語られる」ことを拒絶し、作者である《語る自分》に近づいたりすると。《語る自分》と《語られる自分》とが分離してしまう。
 これが《客観的な一人称》の原理だ。

 そもそも一人称で主語が「わたし」だからといって、作者である「わたし」とはイコールであるはずがない。一人称の「わたし」が作者とイコールの存在でなければならないのなら、男の作者は女の一人称を書けなくなってしまう。
 《客観的な一人称》とは物語中で「わたし」という存在がイコールではなくなる、分離するという現象なのだ。


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