視点 その17

   一人称と語り手




 しかし主客の差が使えるのは、主に三人称文だけ、という印象があるだろう。
 では、一人称では客観的な描写は行えないのだろうか。行えないのなら、一人称はいつまでも《登場人物内》から離れられない。ずっと主観描写のみで、客観なことはない。と言うことになる。
 ならば一人称では、視点が狂わないのか。一人称では主客の量に変化はないのか。もしくは、視点は移動しないのか。実はそんなことはない。
 以下の例文を読んでほしい。

・《例文1》:「私は花子だ」
・《例文2》:「私が花子だ」

 ふたつの例文の差がわかるだろうか。《例文2》の方が、《例文1》より客観的になっている。言ってみれば《例文2》は、ほんの少しだけ客観的な一人称文だと言える。
 更に突き詰めてみよう

・《例文A》:「私は嫌な予感がしていた」
・《例文B》:「嫌な予感に私が襲われていた」
・《例文C》:「(自身を指して)自分を嫌な予感が襲っていた」
・《例文D》:「(自分で自分の名前を呼んで)花子は嫌な予感がしていた」
・《例文E》:「(自身を指して)彼女は嫌な予感がしていた」

 普通の主観的な一人称文である《例文A》から順番に、少しずつ客観的な文章にしてみた。
 《例文A》はほぼ普通の一人称の主観だが、《例文E》ともなると客観的になり過ぎてしまい、三人称文と変わりなくなっている。
 以上から分かることがある。一人称文すなわち《登場人物内視点》が客観的になると、イコールで三人称文すなわち《登場人物外視点》になるのではない。《例文E》にまで主観性が薄められても、自分で自分のことを話しているのには間違いない。つまりは、一人称文であり、《登場人物内視点》であることには違いない。
 つまり一人称文だけでも、こんなにも視点の幅がある、ということだ。こうした一人称でありながら、自分を客観的に見つめる視点を《客観的な一人称》という。


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