視点 その36

    物語契約とコード




 主旨と視点を一致させて狂わせてはならない。だが実際には、しょっちゅう視点の狂いは生じる。
 もし主旨と視点とが一致したら、何が起こるというのか。語り手を中心にして、読者と作者とで、ひとつの世界観や価値観みたいなものを共有することができるようになる。その共有する世界観のことを、「物語契約」という。

 物語契約とは、作者と読者との間で共有する合意である。物語契約こそが、フィクションの意義を支え、物語の形式を決定づける。
 物語契約とは例えば、フィクションを読む上での「お約束」がそれに当たるだろう。擬人化された黒ネズミは人語を話し、二足歩行する。だが、そのネズミの飼っている犬はワンワンと吠えるだけ。
 読者は「そのようなもの」としてフィクションを受容し、読み進める。なぜなら、それが物語契約だからだ。物語契約を無視してあ、決して物語に参加することはできない。

 ということは、フィクションの物語を成立させるには、作者や登場人物や語り手だけでは不充分だということになる。読者にも、フィクションを支えるための役割がある。
 それは、フィクションを嘘と承知の上で、そういう現実もあるんだ、として読むということだ。でなければフィクションは成立しない。叙述と言う行為は一種の取引なのだ。


 例えば、通常、物語の登場人物は、自分が「物語」内の住人であると意識することはない。当然、その物語に「作者」がいることも知らない。フィクション内人物は、そのフィクションの位相の外に現実と言う別の局面があるとは「夢にも思わない」のである。なぜなら、それが物語契約だからだ。
 仮に登場人物や語り手が物語外の存在について言及したとしたら、それこそ視点の狂った文章ということになり。フィクションは「もうひとつの現実」から、単なる嘘へと落ちてしまうだろう。


「このドラマはフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません」
「このゲームに登場する人物は全て18歳以上です」

 こうした文章は、物語外視点の自己言及。作者による物語に関する言及となる。と同時に、物語契約に関する説明だ。以上の物語契約を踏まえた上でないと、このフィクションは正しく読解できなくなる。
 物語外視点文は物語の前提となる。ゆえに、細かすぎても邪魔だし。自己言及の中で矛盾してはならない。矛盾した自己言及文は、クレタ人のパラドックスとなる。
 物語契約からして真偽不明では、物語を読み解くことができなくなってしまう。物語契約とはフィクションにおいて、絶対の約束でなければならないのだ。


 物語契約とは特殊なものではない。太古の昔から物語を成立させるために使われてきた。

《例》
●「むかしむかし、あるところに」
●「仏説如是我聞」
●「お利口でいてくれると約束するなら、お話をしてあげよう」
●一夜の延命のための話。『アラビアンナイト』

 「むかしむかし、あるところに」と語ることで、この物語は現実の時、現実の場所とは関係ない、どこか別世界の物語だと保証することになる。

 仏教のお経では必ず冒頭に「仏説如是我聞」という語句が入る。これは「仏様はかくのごとく説いたと私は聞いている」という意味になる。だから、お経を唱えている現実の人は関係ない。これから語る内容は仏様が語ったのだよという意味を、お経に与えているのだ。
 これもフィクションとしての保証に使われる語句だといえる。

 「お利口と約束するなら」とか、『アラビアンナイト』の延命のためとは。物語がどういう意図で語られるか、というメリットに関する言及だ。
 ということはフィクションであるという約束でもある。


← Return

Next →


Back to Menu