視点 その35

   主旨と視点の不一致(3)




 例えば、同じ歴史をネタにした作品でも、コンセプトで受け止め方が変わる。
 ライトノベルなら、歴史上の偉人を女体化しても、歴史公証を無視しても構わない。ライトノベルに求められるのは、ネタをどう料理して面白くするかというエンタテイメント性だからだ。ネタに、たまたま歴史を持ってきただけに過ぎない。
 それがNHKの大河ドラマで歴史考証を無視すると、途端に資料者の反感を買うことになる。歴史の写実を期待する視聴者が多いからだ。

 それでも考証を無視したドラマを、真面目な媒体でやりたいというのならば。読者の期待がどのようなものなのか、予測した上で。無視しても構わないよう、事前の了承作りを行っておこう。
 すると表現法は自ずと決まってくるだろう。


 小説描写を行う際も、例えば人物描写・情景描写・状況説明といった、異なる情報を混ぜて提示すると読者が混乱しやすい。
 なので情報の種類ごとにまとめて書くと、読みやすくなったりする。これは描写しているモチーフがズレることで、視点まで狂ったように感じられてしまうからだ。

 以上のように、視点と主旨の一致不一致という問題は、細部の描写から、全体のコンセプトまで。作品を支配づけることになる。


 観客が試合を見に来る理由は、まずその試合がどんなスポーツかが事前にある。スポーツのジャンルを決定するのは、ルールだ。観客はルール下で行われるプレイを求めて、試合を見に来るといっても良い。
 つまりは、いちいちルールを守った試合が行われることで、観客のニーズが満たされるのだと言っても構わないだろう。

 これを小説に喩えるとどうなるか。試合のルールとは、つまり視点のことだ。視点が作品のジャンルを決定する。ということは読者がどうしてその作品を手にしたのかという「用途」とは、ジャンルであり視点にこもるということになる。

 だから作者は、主旨を一貫させるためにも、視点を狂わせてはならない。
 視点を狂わせないためにも、主旨を一貫させなくてはならない。
 主旨と視点が一致することで、何が起こるか。作者の書きたいことと、その作者が書きたいことを読者に伝えるためにどう書くかと、読者が作品に期待する「用途」が一致することになるはずだ。

 ……理屈上では、ね?


← Return

Next →


Back to Menu