視点 その38

       場への共謀




 先述した「言葉で書かれたリンゴは実際には存在しない」という説明を思い出してほしい。これも「リンゴがある」と文で書かれただけで、読者はリンゴが実在するとして振る舞わなくてはならない、ということになる。なぜなら、そういう物語契約だからだ。
 だから、作品を読んでいない物語契約外の人間にとっては、どこにもリンゴなんて存在しない。物語契約を交わした者だけの間、つまりは《場》の中だけで、実在するという前提で互いに演技している。いわば、「共謀」しているといっても良い。
 共謀といっても、誰が誰と企んでいるのか。作者と、読者と、いるのならば他の読者とだ。

 作者が行っているのは、作品という素材を与えて、読者からイメージを引き出しているだけだ。
 《場》を作るのは、むしろ読者こそが中心かもしれない。作者から送られた物語世界というウソに対して、読者は自ら瞞されようとする。さらに読者間でそのウソを共有しあう。
 作者と読者とは共犯・共謀関係にあるのだ。

 例えば演劇において、役者と観客の住む世界は異なる、ということになっている。役者と観客とは、舞台によって区切られている。
 だが実際には、観客が手を伸ばせば、案外と役者に触ることもできたりするもの。ならば、なぜ観客は舞台に踏み込まないのか。
 それは暗黙の了解によって観客たちが見守っているから、舞台が成立しているからだ。役者だけが演劇を形作っているのではない。舞台という特別な《場》があるからこそ、演劇という特別な世界が成り立つ。

 演劇や見ている間、観客は舞台と同じ空間に自分がいるということを。映画を見ている間、観客は自分が映画館にいるということを。しばし、忘れたふりをするのだ。
 役者には主人公やヒロインや悪役といった配役が振られ、一時的に別人格となるように。観客も物語世界の中にいる間は、「観客」という配役が振られ、そう演じることが強要されるのだ。
 物語とは、一種の「ごっこ遊び」のようなものといえるかもしれない。

 だから古来より演劇は、神に捧げる儀式として扱われてきた。いやむしろ、宗教儀式の本質とは演劇であり、経典とは物語であったりする。
 物語の中で演者と観客とは、我を忘れる。代わりに、神というキャラクターと演じることで一体になる。一種の憑依状態になるのだ。そうして神の力を借りるのだ。

 この「神の力」が現代では、感動とか萌えになっているというだけで。基本的な機能は今でも全く変わっていない。


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