視点 その39

     人称と場の視点(1)




 こうした物語契約とは《場》といった機能だが。重ね重ね強調しておくが、全ては視点がコントロールしている。

 物語契約とは、つまりどう読んで欲しいかという意図・主旨だ。ならば意図に関係ない事項は物語として表現されないということになる。なぜなら読者は《場》の外まで注目しないからだ。それを作者が無理に記述すれば、それは視点の狂いとなる。
 すると《場》の中だけで通用する、暗黙の了解が生じてくる。いわゆる「場の雰囲気」とか「場の空気」といったものだ。となると、あるモチーフを観察するにしても、偏った見方になってくる。偏ったものの見方、すなわち主観であり、視点だ。

 そして一人称で読者は、キャラに同化して感情移入する。つまりはキャラのように振る舞うというルールこそが、一人称だといえる。だから一人称の主観は、キャラクターの主観である。
 ならば三人称の主観はどうなるのだろうか。ボクは「三人称とは審判の視点だ」と先述した。その審判とは一体何者なのか。審判に主観はあるのか。
 三人称で「ポストは赤い」と書いたとしよう。だが赤いと感じる主体は誰なのだろうか。

 例えば、ドアが開くという文章を様々な人称で書いてみるとしよう。
 一人称ならば「わたしはドアを開いた」となる。ならば三人称ならば「彼はドアを開いた」となる。ドアを開く「彼」を、第三者から観察した文章だ。
 ならば、「ドアが開く」と書いたとしたらどうだろう。するとドアが主体となる。
 自動ドアでもないのに、独りでにドアが開くわけがない。だがドアを開く人物は、例文だと無視される。主体を持つべきキャラクターが介在しないのに、開くドアを観察する主観だけが存在しているのだ。


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