視点 その7

   視点が狂ってはならない理由




 と、ここまでの説明だけを聞いていると、視点とはなんて便利なのだろうと思えるかもしれない。だが実際には視点を使いこなすには困難を究める。視点を使いこなすどころか、ちょっと気の利いた使い方をしようとした途端に、視点が狂ってしまい、失敗してしまう。

 ゆえに今まで、視点を使いこなせるのは、大文豪くらいのものと言われてきた。一人称と三人称を自由に交えた文章なんて、とんでもない。最初から最後まで視点は固定して動かしてはならない、と言うのが従来のセオリーであった。
 だが視点が固定された文章と言うのも、安定はしているかもしれないが、味気ない感もある。まだ小説を書くことに慣れていない内なら、それでも構わないかもしれないが。
 でも本当は視点なんて割と狂うものなのだ。それなら仕方がないから、最初から視点が狂うのを前提に文章を書いた方が、手間も省けようと言うものだ。

 それならば。
 なぜ視点は狂ってはならない、と言われているのか。
 そもそも「視点の狂い」が、どうやって生じるのか。
 このふたつを知ることで、視点を狂わせることなく使いこなせるようになるはずだ。

 まずは、なぜ視点は狂ってはならないのか。この疑問に答えるために重要なのは、「《立場》と《観点》は同時に決まる」。そして「同じモチーフでも、違う描かれ方をされたら、別のモチーフとなる」と言うふたつの原則だ。

 視点における《立場》と《観点》は、違うものだが、同時に決まる。一方が決まれば、自動的にもう一方も決まるものだ。《立場》が決まれば《観点》も決まるし、《観点》が決まれば《立場》も決まる。
 だがふたつは「ほぼイコール」の存在ではあるが、「全く同じ(イコール)」の存在ではない。

 例えば、一人称文で三人称的な表現を使ってしまった場合。もしくは、三人称文で一人称的な表現を使ってしまった場合。これらは、視点が狂った文章と言われている。
 なぜなら、一人称の《立場》で書かれるべき文章が、三人称で書かれたり。また、三人称の《立場》で書かれるべき文章が、一人称で書かれたりしている。《立場》と、実際に書かれた文章の《観点》が違うからだ。

 つまり「視点の狂い」は、《立場》と《観点》が異なる場合に起こっている。

 《立場》と《観点》。どちらかが変わっているのに、もう一方も変えずに文章を続けて書けばどうなるか。さきほど言ったが「同じモチーフでも、違う描かれ方をされたら、別のモチーフとなる」のが原則だ。言ってみれば、いつの間にか違うモチーフを描いているのと同じことになる。
 だから視点が狂うことは問題ではない。視点が狂うことで、モチーフまで別物になってしまい、描写の焦点が合わなくなることの方が問題なのだ。
 視点における《立場》と《観点》の両者は、できるだけイコールでなければならない。

 そして文章を書く上で、良く間違えやすいのは「立場としての視点」である。
 ならば、どのような《立場》の場合に、どのような《観点》で文章を書けば良いのかがわかれば良い。
 これが理解できれば、作者は物語に対し、自由に介入することができるようになる。

 よって知るべきは「立場としての視点」すなわち、語り手が物語のどこにいるか、だ。


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