描写 その18

   実例 ためしに恋愛小説を書いてみる




 しかし「具体と抽象は別のものではない」とか「具体と抽象の間を行き来させる」と言われても、それこそ抽象的すぎて皆さん、わかりにくいかもしれない。
 そこで、「具体と抽象を行き来させながら描写する」とはどのようなものなのか。実例として、恋愛感情とそれに伴う告白に至るプロセスを描写してみよう。

 まず、少女はある少年が好きだったとしよう。
 ふたりは同じ部活の仲間であり、帰り道が偶然同じ方向であった。特に意識するでもなく、ふたりは帰り道を一緒に過ごすようになり、良き友人同士となる。だが、やがて友情であったものは、ゆっくりと形を変えはじめる。
 少女はある日突然、自分の中に芽生えた恋心に気付いてしまうのだ。

 この物語において、語り手は少女の恋心を描写するのが目的となる。
 ならば、最初に注意すべきことは明確である。作品中で「少女は少年に恋をした」と書いてはならない。恋とか愛と言った言葉を使わずに、少女の恋心を伝える。これが《描写》の醍醐味である。

 まず、物語の序盤ではまだ少女は、自らの感情が恋であることを理解していない、と言うのも良いかもしれない。
 いつもと同じ、少年と一緒の帰り道。今まで通り普段と変わらないはずなのに、何かが違う。
 会話がどもってしまう。沈黙に耐えられない。だから無理矢理、陽気な振りをしてしまう。正面から視線を合わせられない。胸がドキドキする。少女の中で、多くの疑問符が飛び交う。
 まだ少女は、違ったのは自分自身だと言う事実に気がついていない。
 また、この段階ではまだ読者にも、少女の抱いている気持ちが恋であることは明示されていない、と言う趣向も面白いだろう。読者の中でもごく一部の、読解力が突出した人間しか先読みできない程度に、情報量の提示を抑える。

 しばらくの時間が経つ。
 少女は今までに起こった、自分の内面変化を省みる。その数々の事実から少女は、抽象的ではあるが、自らの気持ちの正体が何なのか。おぼろげながら自覚を抱くようになる。一度確信を得てしまえば、自問自答が繰り返されることで、少女の気持ちはより具体的になってゆく。
 一緒にいるのが気恥ずかしい。過剰に周囲の目を意識してしまう。ひとりで先に帰ろうとしてしまう。でもやっぱり偶然を装ってでも、傍にいたい。ふたりきりでいると頬を赤らめてしまう。つい下らないことで意地悪してしまう。素直になれない。私は彼のことが好きなのに、このままずっと友達でいても良いのかな?
 だが少年は少女の変化を不思議がりこそすれ、少女の恋心には気がつかない。まだ少女が行動によって伝えようとしている描写対象が、抽象的すぎるのだ。
 だが最低でも、少女は自分の気持ちに従って具体的に行為化したことで、抽象的だった恋は明確なものとなる。

 現状のままでは何も変わらないことを、少女は思い知る。少女は能動的な行動による、現状打破の必要性を感じるようになる。つまり、少女は自らの恋の実現、と言う明確な自己イメージを抱くようになる。
 さりげないつもりで「恋人とかっている?」と訊いてみたり。手が触れ合ったら、少年は何とも思っていないのだが、素早く引っ込めたり。 何気なく、目と目が完全に合ったりしたら、流石の鈍感な少年でも不思議がるほどに、顔を赤くしたり。でも少年は、少女が顔を赤らめることはわかっても、なぜ顔を赤らめるのかまでは理解できない。少女の方も少女の方で、まだ照れてしまい「何でもない、何でもない!」とごまかしてしまう。

 本当ならもうこの辺りになると、現実の男女ならいつのまにか、なし崩し的に恋人同士になっているものだ。
 だって。
 帰り道が同じで、一緒にいる時間が長かったり。こうやって、片方があからさまにモーションをかけていたり。年頃の男女が、意識しない方がおかしいだろう、と。
 だがこれはフィクションである。その存在意義は、読者を楽しませるためにある。だからフィクションとしてのお約束と言うやつで。
 もし少年が少ーし、鈍感だったらどうするか。
 もしくは奥手で、少女の気持ちに確信が持てていなかったとしたらどうするか。
 少女にしてみれば、どうしてこうもモーションをかけているのに、気がつかないんだ。もうすでに具体的だろう、と言うことになる。逆ギレ状態だ。
 だが鈍感な少年にしてみれば、まだ少女の行動は抽象的このうえない。どうやら少女の気持ちを、もっと具体的に描写する必要があるようだ。

 そのうちに、少女の内面は追い詰められてきた。このままでは何も変わらない。どうにかしなきゃ。
 ここまで来れば、抽象的な《描写》ではなく、具体的な《説明》を行ったとしても問題ないだろう。場合によっては、いっそのこと直接「好き」と言った方が効果的かもしれない。

 ある日、ふたりでの帰宅途中。少女は別れ際に、少年にキスをして逃げてしまう。ここまで来ると、ものすごく具体的な恋の表現方法だと言えよう。これで気がつかない方がおかしい。
 でも少年は本当に鈍感だった。次の日、「どうしたの?」とか訊いてくる。もうこうなったら、最後の手段しかない。直接《そのまま》を説明するのだ。
 きっと少女は、少年のあまりの鈍感さに腹を立てる。少女は「君が好きだったからキスしたって言うのに!」と怒鳴って、ビンタを食らわせる。目尻には涙を浮かべて。
 なんて、これ以上ないと言うくらい具体的に、少女の恋心が説明されているのだろうか。ここまで来れば、いかに鈍感な少年と言えども、少女の恋心に気付かない訳にはいかない。

 こうして抽象的だった少女の恋は、徐々に具体的になり、伝えられたのである。


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