描写 その19

   言い回せ!




 でもね。ぶっちゃけた話。
 《具体》と《抽象》を行き来させるとか。《描写》と《説明》を行き来させるとか。瑣末なことはどうでも良い。
 要するにボクが言いたいことは、ひとつだ。
 つまり、あるひとつの描写対象を表現するのに、語り手がいくつの手段を持っているのか。たくさんの言い回しを持て、と言うことである。
 実際《描写》も、《そのまま》言わずに《モノ》で代弁することであった。すなわち、言い回しのひとつに過ぎない。だが《描写》程度の、基本的な言い回しくらいは知っておかないと、《小説書き》を自認するには恥ずかしいのではないかと思うのだ。

 《小説書き》とは何か。答えられるだろうか。
 答えは簡単。《小説書き》とは「小説を書く人」だ。
 商売として飯が食えるかどうかと、良い小説が書けるかは、《小説書き》として別問題だ。小説を書く以外の別の仕事を持っていても、商売作家より良い作品が書ける人は確かに存在する。
 ならば一般人と《小説書き》を峻別するものは何か。
 最低でも、《小説書き》を自認する人間なら、単なる素人とは一線を画していなければならない。素人と同じ文章しか書けないのなら、《小説書き》を名乗る資格はない。
 描写にしろ、伝え方や言い回しなど。技術やウデを持っているのは《小説書き》として最低条件だ。
 《小説書き》は作品に自分自身を籠める。哲学や思想の内容は、作品の善し悪しに関係ない。作者の個性とは、文章を書くウデそのものだ。ウデのない《小説書き》は《小説書き》ではない。
 個性だと言って人の住めない家を建てたり、すぐに壊れるような家を建てたりする大工を、良い大工とは呼ばないだろう。

 「書きたいことがあるから書く」のなら誰でもできる。《小説書き》は「伝えるために書く」のだ。
 だから、持っている技術は、多ければ多いほど良い。
 もちろん、多くの技術を習得したところで、全てを使うことはできない。もしかすると習得したは良いが、一生使う機会のない技術もあるかもしれない。
 だが、技法は知っているがあえて使わない人間と、単に知らないから使えない人間とでは、文章力は雲泥の差となる。

 例えば一流の恋愛小説家がいたとしよう。
 彼がその気になれば、ホラーやアクションやギャグなど、他のジャンルの小説も書けるだろう。しかもきっと面白いに違いない。それは、彼自身の読書経験と習得した技術が豊富だから。あらゆる物語の底流に流れている、根本的な面白さを知っているからだ。
 だがもし、恋愛小説しか読んでいない人間が恋愛小説を書いたとしたらどうなるか。大抵は駄作になる。作品に厚みがないのだ。

 これが例えば絵画だとしたら。
 ピカソは抽象画で有名だ。何も知らない人間はもしかすると、ピカソの抽象画は子供の落書きみたいなもので、自分でも描けると勘違いするかもしれない。だが実際にはピカソは、ものすごく細密な写実画を描くこともできる。
 ただ、あえて自分が描きたい描写対象にふさわしいから、抽象画しか描かないだけなのだ。

 書けるけど、あえて書かない。書かないことで、受け手に与えるイメージを厳選し、明瞭にする。描写対象に応じて、もっとも最適な技法を選択する。
 ここから、ようやくはじめて、語り手の《個性》とか《センス》が問われるようになる。
 どうやって楽しませるか。どの技術を選択するか。
 《センス》とは、読者を楽しませるための判断基準である。

 だから。
 自分で自分にウデがないと気がついていない人間とか、自分で自分の書いたものが他人を楽しませられないと気がついていない人間は、《センス》を持っていない、と言うことになる。
 《センス》は技術により磨かれるものなのだ。






 これで『描写講座』は終わりである。
 基本的なことはあらかた教えたはずだ。これ以上は自分で自分の伝えたいことを表現するため。各人が、自分なりの「言い回し」方を手探りで見つけなければならない。
 だから、もう誰もあなたを手助けすることはできない。門の前に連れて来ることは出来ても、門を開くのは自分の意思だ。
 ただ、実際にどうすれば良いのか。描写対象に応じて、どのように描写技法を応用するか。その実例は『小手先道場』にて行っている。お暇ならついでに読んでくれると嬉しい。

 そして、『小手先道場』を読んでいただけたらわかるだろう。技術なんて、滅多に使えるようなものではないと。本当は、その場その場で、臨機応変に解決策が思いつけるようになるのが理想なのだ。
 しかし描写技術だけで、その域に達することは難しい。小説文を書くにはまだもうひとつ、重要な技術がある。

 それが視点だ。

 小説文において、描写と視点は両の車輪である。どちらかが欠けても走ることはできない。


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