視点 その13 自己言及の矛盾(2) |
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自分に対する、自分の意見を《自己言及》と言う。そしてこれが重要なのだが、《自己言及》を論証することはできない。 例えば悲しさとか、愛情などの感情を説明することはできない、と言うことが論理学的にも明らかになっている。論証できないことが、論証されているのだ。 実際に説明してみようとしたところで、「悲しいって何?」と訊かれたとして、どう答えるのだろうか。「悲しいってのは、つまり悲しむことだ」と答えにならない答えを返すしかない。 「俺は悲しんでいるか?」「彼は悲しみの感情を抱いているか?」なんて問いに、客観的な論でもって答えることは不可能なのだ。 だから「俺が青ざめた」と言い張るのも「私は可愛い」と思うのも、極端な話、本人たちの勝手なのだ。他人が「いやそれは違う」と反論するのもやはり自由だが、完全に反論することはできない。 他人には分からなくても、自分にとっては間違いのない真実。自分にしか見えない光景。これを《主観》という。 意見や感情と言った主観が本当にあるかどうか。わかるのは、自分だけである。誰にも他の人に、自分が主観を持つことだけは反論できない。だから主観は、ある意味で必ず正しいと言える。主観はそれだけで大前提なのだ。 だが主観は否定不可能とはいえ。ならば読んだ内容に納得できるか、となると話は異なる。主観文とは、自分で自分について語る、自己言及になってしまう。自己言及は文章としては正確ではない。論理として自己言及は矛盾を起こしてしまう。 言わんとする意味は通じるかもしれない。しかし、どうしても説得力はなくなる。 説得力は文章が持つ、もっとも強いちからのひとつである。説得力のない文章は、たとえそれが小説文であっても、読んでいて強さを感じられない。面白くない。 以上を小説文の視点でどう使うか。まずは、先述した視点における原則を思い出して欲しい。
今ならこれら原則の成り立つ理由が分かるはずだ。 すなわち《自己言及》となる自分への意見、つまりは焦点子自身に対する客観文は正確でない。他人には自分の主観は分からない。 《自己言及》は必ず主観となる。ゆえに主観文が許されるのは、焦点子自身、もしくは焦点子の内部に対してのみ。 それはつまり、焦点子自身の心理描写のことだ。 |