視点 その40

     人称と場の視点(2)




 例えば演劇は観客たちの「共謀作業」によって、舞台の上に別なる現実が展開される。共謀とは、参加者全員による同意によってなされる。
 実は、審判の視点とは、《場》の視点のこと。《場》に参加する者たちによる、公約数的な主観の現れ方。《場》を擬人化したものが、三人称の主観なのだ。
 だから一人称では「わたし」が物語を語るが。三人称では「わたしたち」の主観をすりあわせを行い、同意できる物語を語ることになる。

 三人称は《場》の視点である。だから作者自身の主観は、物語に参加できないのだ。三人称においては作者すら、《場》の視点のように振る舞わなくてはならない。だから三人称の主体は、物語のルール・物語契約の審判役であって、プレイヤーとして参加はできないのだ。
 ただし「わたしたち」による共謀作業といっても、最初に物語契約を決定するのは、あくまで作者自身だ。だから作者とは視点によって、読者に方向性を与える存在だともいえる。

 そしてブラインド(遮蔽物)には注意だ。ブラインドとはつまり、《場》の中からは認識できない、《場》の外に存在しているということだ。モチーフが《場》から離れると、共謀作業として同意が得られなくなってしまう。
 ブラインドの向こうは、《場》が違うのだ。だからブラインドの向こうまで描写してしまうと、「視点の狂い」となってしまう。ブラインドの向こうを描くには、別視点でなければならない。
 三人称だから、神の視点だからといっても、「視点の狂い」という制限がある。全知全能で何でも描けるわけではないのだ。

 こうして作者の主旨は、視点によって込められることになる。ならば次は読者の読み方。なぜ、読者の「どう読むのか」までが、視点で決定するのだろうか?
 その答えこそが、視点の奥義となる。


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