視点 その41

      視点の奥義




 なぜ読者は、視点の機能によって物語契約を共有できるようになるのか。それはもちろん物語に感情移入するからだ。
 では読者は物語の何に感情移入しているのだろうか。安直に考えるなら、そりゃやっぱりキャラクターだろうと思うだろう。だが実は、少しだけ違う。

 読者は焦点子に同化・自己投影して読むのだ。

 だから一人称ならば焦点子イコール、主人公なので。主人公に同化し、感情移入しながら読んでいると考えて構わない。
 しかし三人称の焦点子は、《場》の主観ということになる。つまり三人称で読者がキャラクターに感情移入しているといっても、決してそのキャラクターと同一化しているわけではない。《場》の雰囲気という視点を通して観察した、キャラクターに感情移入しているのだ。

 なので神の視点だからといって多くの焦点子を設定し、コロコロと視点を変えると、読者は感情移入がしにくくなる。
 視点が狂うとは、同化していた主観とは別主観になるということだ。だから視点が狂うたびに、読者は同化しなおさなくてはならない。その度にリアルに引き戻されることになり、物語に没入することができなくなる。
 一貫したキャラだからこそ、一貫したストーリーが展開できる。映画でも同一人物は、同一の役者が演じるのが原則だ。それを、ある配役を途中から断りもなく、違う人間が演じていれば、観客としては混乱するしかない。
 視点移動や視点交代をしたいのなら、《場》として主旨の一貫性を求められるのだ。

 そもそも本当は視点なんて、あまり重要じゃない。大事なのはむしろ、モチーフや主旨の方。視点や人称のズレは、主旨が変わるから駄目なのであって。主旨が一貫していれば、視点なんてズレても構わない。というかズレにならない。
 主旨の統一さえ守られていれば、視点なんて多少は狂っていても、あんまり読者はわかんないのだ。

 もちろん、視点の狂いがないからこそ、主旨も正しく伝わるのだ、とも逆説的にいえるが。
 ともかくは、まず焦点子を一貫させる。だから自己言及も避けておく。
 物語契約レベルで、焦点子がどのような主観を持っているか。語り手の人格をちゃんと演じるためにも、語っている人の口調と、どう語っているかというシチュエーションだけは固定しておく。
 実は、たったそんだけで視点なんて守れちゃうのだ。

 だが視点が守られるということは、読者が完全に焦点子と同化できるということ。つまりは物語へ完全に没入できるということだ。だからこそ、視点と人称は小説における、最高の技法たりうる。
 そうして、リアルとは異なる《場》に参加する。自分とは違う、他の人格・他の世界と同化し、別人生を体験する。
 これが読書するということ。フィクションの読まれ方である。


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