視点 その29

   三人称のまなざし(1)




 ゴッドビューは主観をできるだけ排した文体となる。ならば普通の三人称。それもキャラ視点の、一人称ではない視点。つまりは物語内キャラ固定三人称ではどうなるかも見てみよう。

 これは描写一般にいえることだが、客観文最大の魅力は、説得力である。説得力を得るには「正しいこと」すなわち、事実に関して言及するのがベターなやり方となる。しかし事実の列挙だけでは、小説として味気なくなってしまう。そこで主観文・意見文を挟み込んでやる。
 この挟み込む、という手法がキャラ固定三人称では特にやりやすい。視点が特定のキャラに固定されているため、読んでいる方も視点の狂いが生じる心配なく、文章を読めるからだ。

 すごく俗っぽい説明をさせてもらうと。
 一人称をゲームに喩えると、もちろんFPS(ファーストパーソン・シューティング)ゲームの、自分とキャラが一体化した視点だ。
 するとゴッドビューや物語外視点は、戦略シミュレーションゲームのマップ画面になる。いわゆる鳥瞰だ。勝手にどこでもマップを動かすことができるし、どこでも自由に観察ができる。ただし遠い場所からの観察なので、一点集中して注目することは難しい。
 だったらキャラ固定三人称はどうなるかというと。キャラに合わせて周囲の画面もスクロールして動く。例えばスーパーマリオのようなゲームになるだろう。
 つまり、キャラを中心とした周囲の空間をまで描き出すのが、キャラ固定三人称の精髄といえる。でも、なぜ三人称の語り手はなんでそんなことするのか。また、できるのか。

 三人称は主人公というキャラが、自分自身で物語内について語ったりしない。三人称はあくまでも代弁だ。それも物語に直接関与しない第三者が代弁する。だからこその「三人」称だ。
 キャラが自身で物語を語る際、その箇所は三人称でなく一時的に、三人称になっている。三人称では全ての観察と伝聞を、代弁者たる語り手に任せなければならない。どんな回りくどく、面倒くさかろうと、だ。

 では三人称の語り手は、どうして物語に関わろうとしないのか。語り手の役割とは何なのか。
 物語をスポーツの試合に喩えると「三人称の語り手とは、審判のようなものである」と考えれば理解しやすいのではないだろうか。


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