視点 その30 三人称のまなざし(2) |
|
そして審判にも、主審と副審の複数が存在すると考えれば良いかもしれない。ゴッドビューが主審。キャラクター固定視点はキャラクターへ個別につくので、副審。 例えばキャラAとキャラBが戦っているとする。するとAとB、ふたりの副審がつくことになる。ただし全体としては、どの副審も主審に逆らうことはない。もしかして、副審の合議で、主審の判断も変えられることがあるかもしれないが。 どのみち審判である以上、試合のルールに従うことに違いはない。 これがもし、サッカーの試合だと思って観戦していたら、ついていたのがラグビーの審判で。ボールを手で触ってもペナルティが出ない、なんてことになったとしたらどうだろう。 きっと観客は試合を楽しむことはできない。 これを小説で喩えるなら。自分は推理小説を読んでいたはずだ。密室殺人のトリックは、そして真犯人の正体は誰なのかと、楽しみにしながら読み進めていた。ところが途中から、いきなり超能力ものにストーリーは大変化。全ては瞬間移動の超能力のせいでした、で終わったとしよう。 やはり読者は物語を楽しむことができないはず。 これがすなわち、「視点の狂い」ということになる。 ともかく審判の役割とは、ゲームの速やかな進行運営。観客たる読者に安心して、試合観戦をしてもらうこと。 だから物語外視点として、作者が強い主張をしたり、物語に干渉したりすると、審判が特定の選手に依怙贔屓をしたズルになっていまう。すると読者としては「空気を読めや」状態になる。 読者が求めているのは、「試合として意外性のある展開」なのであって。試合と関係のない他人が横槍を入れる、というような意外性を求めてはいないのだ。 つまり三人称の語り手は、物語というゲームの進行を行う。いわば「物語というゲーム」「ゲームの空気感」「空気感を作り出す場所」が擬人化された、「場の主観」を持つことになる。 対して一人称は、ゲームプレイヤーとの同化、ということになるだろう。プレイヤーである以上は、ゲームのルールを破ることはできないはずだ。 以上を要約すると、モチーフ(=あなた)を見るという行為を通して、「わたし」自身を描き出すのが一人称。 「わたし」と「あなた」のあいだにある空間・作られる距離を描くのが三人称。ということになるのではないだろうか。 皆さんも三人称を書いていて視点に困ったら、「自分は審判である」とイメージしてみよう。不思議と迷いがなくなるはずだ。 オマケで二人称の小説文体に関しても説明しておきますと。 「美しい景色だ」とキャラに同化した語り手自身が読者に語りかける、直接話法が一人称ならば。「美しい景色だ(とAは思っている)」と語り手が代弁して、自由間接話法で読者に伝えるのが三人称。 ならば「あなたは景色を美しいと思っている」と二人称で、読者であるあなたに物語を伝えるのは誰か。結局は語り手が「あなた」を代弁している。間接話法である。つまり二人称は三人称の一形態に過ぎないということになります。 二人称は誰も使ってないから、自分が二人称を使えば文学史に大革命を起こせるに違いないとか、ね。そんなこたー無理です。 さて、物語外視点は作者自身の独白でしたが。ゴッドビューは作者の代弁。キャラクター固定三人称は、登場人物の代弁。誰が代弁しているかって、語り手である。 一人称というのも実は、語り手とキャラが同化はしているものの、時によってイコールではなくなることもある。 この、作者でもない。キャラ自身でもない。語り手とは果たして何者なのでしょうか? |