視点 その31

      語り手の介在




 そもそも論というか。根本的な話、文章で書かれたものとは実際に存在するものではない。
 読者が文章を読むことで、その情報を元に何かを思い出したり、イメージしたりする。文章上の存在とは全てが、虚構[フィクション]であり、情報に過ぎない。もっといえば、事実に見せかけた嘘なわけだ。

 考えてみると、読書とは不思議な行為だ。文章として「リンゴがある」と書いただけで、読者は赤くて丸くて甘酸っぱい、あの果物を想像しなくてはならないのだから。
 さらに「世界でもっとも美しい宝石」なんて、文章で書くのは簡単だ。だが「世界でもっとも美しい宝石」を映像で再現しろといわれたらどうだろう。完全に無茶だ。しかし読者はそんな文章だけで、「世界でもっとも美しい宝石」を想像してくれる。
 というように文章には、「語る言説」と「語られるモノ」との間に差がある。それは「フィクション」と「現実」との差ともいえるかもしれない。フィクションは現実に似せて作られる。だが決して両者が同じものになることはないのだ。

 だから作品としては、現実の出来事に関して書かれたルポルタージュだったとしても。読者としては「現実にあったらしい」というだけで。非実在のフィクションとして読まれることには違いない。
 「自称・実話」という目的のフィクションとして読まれるわけだ。

 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」で始まる、紀貫之の『土佐日記』なんて、そう考えるとかなりヤヤコシイ。
 内容は作者である紀貫之自身の紀行文だ。だが、相当に嘘が入っている。真実とは限らない。そして紀貫之は男なのに、作中では女を演じている。というのも当時の日記とは単なる、日々の記録・実録だった。だから本来ならば漢文で書かれなければならない。しかも記録だから公人である男が書くもの。それを女である自分が私的な理由で書くから、仮名で書くという。

 現実の作者と、虚構としての作者。現実の旅と、虚構としての紀行文。漢文で書かれなければならない日記と、仮名で書かれたフィクション。「語られるモノ」と「語る言説」との間に、二重三重もの「≠[ノットイコール]」が存在している。
 それを読者は読みながら、サッと了承して、読み進めるのだ。本当ならコレって凄いことなのだが。

 以上のように言語上の全てはフィクションだとしたら。読者にとっては、作者の存在もフィクションだといえる。
 だが作者自身は実在している。なので読者と作者は互いに、「語り手[ナレーター]」という、物語を語るだけの疑似人格を仮に設定する。
 そうして初めて作者は、物語の出来事を記述できるようになる。対して読者は語り手を通じて、物語内の出来事を知ることができるようになるのだ。

 物語上において語り手の存在が避けられないのは分かって頂けただろうか。だが語り手のことをイチイチ考えながら文章を書くのは面倒くさい。なので無視できないか。
 まあ……一応は無視できないでもない。語り手を無視して物語を進めたとしても、語り手が存在するのには変わりないのだが。
 しかしフィクションの物語には、語り手が必要となる理由があるのだ。


← Return

Next →


Back to Menu