視点 その33

   主旨と視点の不一致(1)




 例えば先述した、不倫の物語を思い出して欲しい。夫と妻と愛人とで視点が変われば、主旨は変わってくる。もしこれが、「不倫は許せない」という妻の視点なのに、「男なら、たまの不倫も仕方ないよね」というような夫寄りの主旨になっていたら、どうだろうか。

 このような視点と主旨のズレとはスポーツで喩えれば、サッカーの試合をやっていたはずが、いきなり途中から選手が勝手にラグビーを始めて、手でボールを持つようなものといえる。
 すると観客はそんな試合を見せられて、どう思うだろうか。観客はもちろん、サッカーの試合を楽しみに見に来たはずだ。ところが試合を見れば、「ともかくゴールすれば良いんだろ」と選手が手を使ってボールを持ちはじめる。だったら最初からラグビーをやれという話だ。

 ルールを守った試合もしないのなら、観客は何を楽しめば良いのか、分からなくなるだろう。
 いきなり乱入して選手を殴り倒し、勝利宣言されても、観客は唖然とするだけだ。手段を選ばず反則で勝っても、観客は感動できない。

 サッカーというルール下では、やりたい放題は許されない。プレイヤーがそれでも自分は目立ちたい、自分を表現したいのならどうすべきか。
 まずは審判の命令通りにールを守る。その上で「プレイヤーとしての役割」「チームの一員としての役割」を果たすことが求められる。サッカーの試合ならば、サッカーのルールという制限の中で、選手は努力と工夫を重ねプレイする。その果てのファインプレーだからこそ観客は感動できる。感動されるから、そのプレイヤーはヒーローになれるのだ。

 以上のような反則を、小説で喩えるなら御都合主義的な展開としよう。
 試合のルールとは、小説で喩えるなら作品の主旨だ。
 そしてルールの守られない試合、審判の機能しない状態を小説で喩えるとどうなるか。三人称の説明でボクは、三人称とは「審判の視点」だといった。
 つまり「視点の狂い」とは、そもそもが「試合のルール」=「作品の主旨」が守られていない状態なのだ。


← Return

Next →


Back to Menu