視点 その44

      「視点移動」の技法(1)




 通常、よく使われる視点移動というのは、一行空けることで視点の交代を明確に提示するという手法だろう。というのも連続した段落の中で、視点が交代すると読者が混乱しやすいからだ。
 しかし今回紹介する視点移動の技法は、同じ段落内で別視点に移動してしまう。
 試しに以下の例文を読んでもらいたい。

《例》
 九回裏、2アウト、2ストライク、ランナー三塁、一点差で我がチームのリード。これが最後の投球だ。ピッチャー投げた。今日、最高速の球だ。しかしバッターもそのコースのストレートを狙っていた。バットを振るう。球の芯を捕らえる。快音と共に打球は伸びる、伸びる。守備は必死に追うも、だが打球は頭上を越えて、フェンスも越えて、球場から見えなくなった。途端に歓声が巻き起こる。逆転サヨナラホームランだ。

 視点移動文の例である。これもボクが書いた。
 移動を分かりやすくするため、余計な修飾は省いて書いてある。本来なら視点が移動するのを、もっと分からないように書くものだ。
 焦点子は「試合状況→ピッチャー視点→バッター視点→守備視点→ボール視点→球場の様子」と目まぐるしく変わっている。だが読んでいて、あまりおかしいとは思わないはずだ。

 さて上の例文がなぜ、視点移動しているのに、「視点の狂い」が生じていないか。
 理由は簡単。視点や人称の狂いよりも、まず気にするべきはモチーフのズレだ。視点が狂うと、モチーフをどう描くかという主観も狂う。
 逆にいうと視点を移動させても、主旨を変えなければ、モチーフと主観が同一であれば、視点は狂わない。

 なので今回ボクは、「ホームラン」に焦点子を置くことにした。正確には、ホームランが打たれた球場という《場》の擬人化された視点ということになる。
 すると、ホームランというモチーフ及びテーマが定まっているので、視点が狂っても主旨が狂うことはない。視点移動も、ホームランを別の言い方で、別側面について表現しているだけということになる。

 さらに視点移動の仕方が、個人から、球場およびホームランという大きな《場》へと移行しているが。
 これはどのような意図があるかというと。語り手は「わたし」よりも、もっと大きな感動を受けた。だから「わたし」という殻から抜け出して、感動を語らずにはいられなくなった。というのがホームラン描写の主旨ということになる。
 そして読者は焦点子と同化するもの。だから読者はキャラクターという「わたし」に収まらなくなって、《場》と同化してもらわなくてはならない。《場》の視点と同化することで、球場にいる「みんな」と大きな感動を共有する。
 上記の視点移動には、そのような意図があって使っているのだ。

 三人称とは「場の視点」である。三人称を、そして「場の視点」を真に理解するには、視点移動をやってみるのが良い試みになるだろう。


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